五年前、資産が一億円を少し超えたところで会社を辞めた。いわゆるFIREというやつだと思う。辞める直前は、仕事が特別に嫌いだったわけではない。ただ、毎朝決まった時間に起きて、満員電車に乗って、締切と会議と人間関係に一日の大半を預ける生活を、あと二十年くらい続けるのかと思ったら急にしんどくなった。
そのまま定年まで勤めれば、資産はもっと増えたと思う。会社員でいることには与信も保険も社会的な説明のしやすさもある。子どももまだ学生だし、辞める判断が絶対に正しかったとは今でも言い切れない。だから、これから真似しようという話ではない。
それでも五年経って、意外なほど精神は安定している。FIREした人が暇すぎて病んだとか、社会とのつながりがなくなって仕事に戻ったという話を見かける。そういう人がいるのは自然だと思う。一方で、仕事をしないことが問題にならない人間もいる、という見本として書いてみる。
生活はかなり普通だ。子どもの登校時間に合わせて起きる。朝食を作り、家族を送り出し、洗濯や買い物をする。用事がなければ散歩する。本を読んだり、動画を見たり、家の片付けをしたりする。夕方になればまた家族が帰ってきて、夕食を食べながら学校や仕事の話を聞く。昼間に誰とも話さない日もあるが、孤独だとはあまり感じない。
会社勤めのころは、休日に何もしないと損をした気がしていた。疲れて寝て終わるだけの日曜の夜には、月曜の予定がもう始まっているような感覚があった。今は、何も起きない一日がちゃんと一日として終わる。それだけでかなり楽だ。予定表が空白でも不安にならない性格だったのだと思う。
資産は、現金だけで持っているわけではない。投資信託などに分散して、生活費をそこから出している。大きく増やそうとしているというより、なるべく長く持たせるつもりで運用している。この五年は相場が良かったので、取り崩しているのに減りそうで減らず、少しずつ増えている。もちろん、これは今後も同じとは限らない。
暴落が来たらどうするのか、と聞かれたら怖くないわけではない。資産額が画面の上で大きく減ったら、たぶん気分は落ちると思う。ただ、生活費をすぐ切り詰められるよう、もともと消費水準は高くしていない。家は贅沢ではないし、高い車もない。外食や旅行を完全に我慢しているわけでもないが、欲しいものが次々に出てくるタイプではない。
一千万円を超えたころから、日常の小さな買い物で過剰に悩むことは減った。ただし、値札をまったく見ない生活ではない。スーパーでは普通に比較するし、使わない物は安くても買わない。欲しい体験や、家族に必要な物には出す。お金があるから生活が派手になるというより、我慢しているという感覚が減った、くらいだ。
家族がいることは大きいと思う。ひとりだったら同じように安定していたかは分からない。会話の相手がいて、食事を一緒にする人がいて、子どもの予定に合わせて生活が回る。仕事を辞めても生活のリズムが壊れなかったのは、そのおかげだ。家族には、私が家にいることを当然のものとして受け入れてもらっている。
子どもが働かない親を見て何を思うか、という心配もある。だから、何もしないで遊んでいる姿を見せたいわけではない。家のことを引き受け、投資のことも含めて、お金は勝手に湧くものではないと話すようにしている。働くことは立派だし、仕事から得るものも多い。ただ、会社に毎日通う以外にも、生活を成り立たせる方法はあるのだと思ってほしい。
FIRE後にボランティアや趣味の活動を始める人もいるけれど、私は今のところ積極的にはしていない。人と関わるのが嫌いなわけではなく、義務が少ない状態が気に入っている。頼まれれば手伝うし、地域の用事もできる範囲でやる。でも、空いた時間を新しい予定で埋めるために辞めたのではない。
一億円が十分かどうかは、住む場所、住居費、家族構成、教育費、健康状態でまるで変わる。自分でも、これが二億あればもっと安心だろうとは思う。インフレもあるし、医療や介護など予想できない出費もある。それでも、不安が完全に消える金額はたぶんない。会社員だったころも、貯金が増えれば別の心配が出てきた。
辞めてよかったと思うのは、朝から晩まで仕事のことを考えなくてよくなったからだ。子どもの話を急かさず聞ける。平日の昼に病院や役所へ行ける。体調が悪い日は寝る。混んでいない時間に買い物をする。どれも小さいことだが、小さいことの積み重ねが生活なのだと思う。
FIREに必要なのは資産額だけではなく、暇と一緒にいられる性格なのかもしれない。私はたまたま、何もない毎日を退屈より平穏として受け取れる側だった。将来、相場が悪くなって働き直すことになる可能性もある。そのときはそのときで考える。少なくとも今は、五年前に想像したより穏やかに暮らせている。