SFCのトルネコの大冒険から、風来のシレンに行ったときの「えっ、同じジャンルでここまで変わるのか」という衝撃を、たまに思い出しては一人で興奮している。

トルネコももちろん大好きだった。ドラクエの世界に、あのちょっと変わったダンジョンゲームがくっついている。最初は何をしていいか分からないけど、入るたびに地形も道具も敵も変わる。死んだら持ち帰れない。なのに、なぜかもう一回だけ潜りたくなる。

ドラクエの仲間であるトルネコが主人公だから、ダンジョンの外にもちゃんと目的がある。店を大きくしていくとか、家族のために頑張るとか。ゲーム全体としてはあたたかいし、分かりやすい。ダンジョンでひどい目に遭っても、トルネコならまあそういうこともあるか、と思えた。

ただ、当時の自分はローグライクという言葉も知らなかったので、あれを「ドラクエの外伝」くらいに思っていた。だから次にシレンを遊んだとき、これは続編ではないのに、確実にあの面白さがとんでもない勢いで発展している、と感じた。

シレンは最初からダンジョンに住んでいるゲームだった。

道具の数が増えた、敵が増えた、というだけではない。何か一個手に入れるたびに、できることと、やらかすことの両方が増える。壺ひとつ取っても、ただの収納箱じゃない。何を入れるか、いつ使うか、割るのか、持ち歩くのか。便利なはずなのに、持っているだけで判断が発生する。

腕輪もそうだし、杖も巻物もそうだし、肉もそうだった。敵を倒すための道具が、逃げるための道具にもなり、稼ぐための道具にもなり、泥棒の準備にもなる。そしてたまに、自分を破滅させる道具にもなる。

この「強い道具を拾ったから楽になる」だけで終わらない感じが、めちゃくちゃ好きだった。強い道具を拾ったからこそ欲が出る。もっと深く行けるかもしれない。モンスターハウスも行けるかもしれない。店から持ち出せるかもしれない。そうやって少しだけ背伸びした結果、だいたい死ぬ。

でも死んだ理由が分かるんだよな。

運が悪かった、で終わることもある。でも大半は、「あそこで巻物を使えばよかった」「満腹度に余裕があるからと粘ったのがまずかった」「通路に入る前に確認すべきだった」「その敵を二体まとめて相手にしたのがダメだった」と、死んだ直後にはっきり思い当たる。

その反省が、次の一回を始める理由になる。

初代シレンのこばみ谷は、特にその繰り返しがちょうどよかった気がする。最初は遠い。何度潜っても遠い。でも少しずつ先へ進めるようになる。前は苦しめられた敵が、今度は対処できる。道具の使い道が分かる。店を見つけたときの緊張感も、モンスターハウスの音楽が鳴ったときの絶望感も、慣れるのではなく、慣れた上で別の怖さになる。

一周の長さも絶妙だった。大作ゲームのように、今日は腰を据えて三時間やるぞ、という気分でなくても始められる。ちょっと潜って、順調なら続ける。事故ったら今日はここまでにする。上手くなってくると、短時間で一気に踏破を狙う遊びもできる。

それなのに、いくら遊んでも同じ一回にならない。

武器と盾を育てて持ち込む遊びも楽しかった。大事に大事に強化した装備を、うっかり罠で失ったときの喪失感は本当にすごい。画面を見たまま数秒止まる。たかがゲームの数字なのに、その数字に至るまでの時間と判断と幸運が全部消えたように思える。

でも、その一方で持ち込みなしのダンジョンに潜ると、裸一貫でもまた別の面白さがある。最初の数階で良い武器を拾うだけで世界が明るくなるし、逆に何もないまま嫌な敵が出てきたら、それだけで計画を変えなければならない。持ち物が少ないほど、道具一個の意味が重くなる。

たとえば壺は革命だったと思う。見た目には地味なのに、壺があるだけでアイテム管理がゲームになる。合成という発想も、ただ強化できてうれしいでは終わらない。何を残し、何を混ぜ、今の安全と将来の強さのどちらを取るかを考えさせられる。

肉もすごかった。敵を倒すだけだった相手が、急に使える能力の候補になる。嫌いな敵ほど、肉になると欲しくなることがある。さっきまで絶対に近づきたくなかったやつの力を借りて、こちらがダンジョンをずる賢く歩く。その感覚が最高だった。

罠師の腕輪みたいな、世界の見え方を丸ごと変えるものも好きだ。普通なら避ける罠を、自分の側に引き込む。ダンジョンの危険物が資源に変わる。ゲームが急に別ジャンルになるような道具を、たまにぽんと渡してくるのがシレンの恐ろしいところだった。

音も強かった。店に入ったとき、モンスターハウスに入ったとき、先へ進むとき。説明されなくても、今は気を抜く場面ではない、と身体に知らせてくる。背景も派手すぎないのに、階層ごとの空気がある。テーブルマウンテンを登っているという感覚が、道具と敵と音楽でずっと維持されている。

トルネコが遊びやすく整理された入口だったからこそ、シレンの自由さは余計に眩しかったのかもしれない。トルネコにはトルネコの良さがある。ドラクエの世界で店を大きくしていく楽しさは、あれだけで十分に特別だ。

でもシレンは、ダンジョン内で起きる小さな出来事だけで、何百回も話が作れる。序盤で拾ったどうたぬきに救われた回。真空の巻物で危機をひっくり返した回。欲を出して店から逃げて失敗した回。最強装備を作ったのに、しょうもない事故で全部失った回。

クリアした記憶より、死んだ記憶のほうが鮮明なのに、それでも嫌いにならない。むしろ死んだ回まで含めて自分の冒険だったと思える。

「千回遊べる」という言葉は大げさな宣伝文句みたいだけど、初代シレンに関しては全然大げさじゃないと思う。一回一回は短いのに、覚えることがあり、試したいことがあり、欲張って失敗する余地がある。

そして久しぶりに触ると、頭では忘れていたはずの感覚が戻ってくる。通路の角が怖いとか、満腹度が減ってくると焦るとか、店主の前では変なことをしないとか。なのに、知っているから安全になるわけではない。知っている自分が、また欲張るから。

あれは本当に、ずっと遊べるゲームだった。