母は六十代後半で、ここ数年ずっと「日本はもうだめ」「これからは中国や韓国に抜かれる」「若い人はかわいそう」と言っている。
別に政治の話を熱心に追っているわけではない。テレビの特集、動画のおすすめ、知人から回ってきた記事、そのへんをつまみ食いしては、ため息をつく。商店街のシャッター、値上がりした食品、地方の人口減少、海外企業の派手な新製品。どれも一つずつなら普通に考えるべき話なのに、母の中では全部が「日本終了」の証拠として、きれいに同じ箱へ入る。
このあいだも夕食中に、海外では若者がもっと豊かに暮らしているらしい、と言い出した。私は反射的に、どこの国の、どんな若者の話なの、と聞いた。すると母は少し不機嫌になって、「そうやって細かいことばかり言う。でも昔より悪くなってるのは見ればわかる」と言った。
たしかに、悪くなったものはある。将来に楽観しにくい理由もある。だから母を現実逃避だと笑う気はない。ただ、母が欲しがっているのは現実の把握というより、「ほら、やっぱり悪くなっている」という手触りなのではないかと思う。
昔はよかった、という話には、失われたものを惜しむ気持ちがある。同時に、今を生きている人間より、自分が知っている過去のほうを上等に置ける気持ちも混ざる。自分の若いころにあった店、仕事の仕方、街の活気、なんとなく共有されていた未来への期待。そういうものが消えたと確認するたび、現在への不満が正当化される。
「日本すごい」も似た構造だと思う。自分が何かを成し遂げたわけではないのに、日本人であることによって少し誇らしくなれる。衰退論は逆向きで、自分の人生のうまくいかなさや、老いて世界についていけない感じを、国全体の凋落に溶かせる。私だけが取り残されたのではない、国そのものが下り坂なのだ、と。
だから衰退の話には妙な快感がある。悲しい話をしているのに、語る人の口調が少しだけ生き生きしている。数字や海外ニュースや閉店情報を持ち寄り、暗い結論にたどり着くこと自体が目的になる。改善策の話になると急にぼやける。何を変えるべきかより、もう遅いのだという感触のほうが大事だからだ。
これを衰退ポルノと呼びたい。衰退が嘘だと言いたいのではない。現実の中から衰退を示す断片だけを選び、繰り返し眺め、感情を満たすために消費する態度のことだ。ポルノか現実か、ではない。現実であってもポルノにはなりうる。
逆に、都心は人が多いとか、住環境はまだ悪くないとか、他国にも別の苦しさがあるとか、そういう話だけで安心するのも同じくらい危うい。上向きの数字と下向きの数字は、たいてい同じ国の中にある。どちらかだけを見て、わかった顔をするのがいちばん楽だ。
母には、暗いニュースを見るなとは言えない。私だって不安になる。ただ、若い人の未来まで勝手に終わらせないでほしいと思う。この国が以前より弱っている部分があるとしても、今いる人たちが何も作れず、何も変えられないと決まったわけではない。衰退を語って気持ちよくなるより、悪いところを悪いまま見て、それでも次に何をするかを考えたい。