最近、「第二の脳」という言葉をよく見かける。Obsidianみたいなメモアプリに自分の読んだ本や考えたことを全部放り込んで、AIに検索させたり、関連づけさせたり、場合によっては自分の代わりに文章を書かせたりする。そうすると、単なるメモ帳ではなく、自分の外側にもうひとつの脳ができる、という話らしい。

言いたいことはわかる。自分も忘れっぽいので、昔書いたメモやブックマークをあとから見つけて、「このときはこんなことを考えていたのか」と思うことがある。写真アルバムや日記だって、記憶を呼び戻す装置としては十分に外付けの海馬みたいなものだろう。大量の資料を保存しておいて、必要なときに検索できるのは便利だし、AIに要約させたり、似た話題をつないでもらったりするのも便利だ。

でも、それを脳と呼ぶのにはかなり違和感がある。

外部化できるのは、まず記憶と検索だ。これは昔から本や図書館やインターネットがやってきたことでもある。自分の頭の中にない知識を、外部の棚から取り出す。そこまではいい。

問題は、その先まで外部化しようとするときだ。連想や判断や、何を重要だと思うかという基準までAIに任せると、そこに出てくるのは自分の脳ではなく、自分の文章や記録を材料にして作られた、整合的な自分のニセモノではないかと思う。

たとえば、Claudeが自分のメモから「あなたが次に考えるべきこと」を十個出してくれたとして、その中に本当に思い出すべきBがなかったらどうするのか。Bを思い出すのが第一の脳の仕事なのではないか。もちろん第一の脳を一切使わずに済ませるという話ではないのだろうけど、補助のための道具を、いつのまにか自分そのもののように扱っている感じがする。

AIは、それらしい関連項目を出すのは得意だ。でも、カモノハシの画像を見せて「これは猫です」と言われたときに、何かがおかしいと気づくのは、データベースに正しい答えが入っているからではない。そもそも何を見ているのか、どういう経験と照らし合わせるのか、どこに違和感を持つのかという話だ。

脳は情報を保管する箱ではない。身体の感覚や、疲れや、過去の失敗や、言葉にならない印象まで含めて、その場その場で世界を判断している。元の体験に対して言語はかなり圧縮された記号でしかない。メモに書いた時点で、体験の大部分は落ちている。だから大量の文章を保存して、あとから検索できるようにしたからといって、体験そのものを保存したことにはならない。

「第二の脳」というより、第二の海馬とか、外付けの記憶領域と言ったほうがまだ正確だと思う。棚が増えたのであって、脳が増えたわけではない。棚に何を置くか、どの棚を見るか、そこから何を取り出してどう判断するかは、結局第一の脳がやるしかない。

しかも、こういう仕組みは育てること自体が目的になりやすい。ノートをきれいに分類して、タグをつけて、リンクを張って、AIが使いやすいようにデータベースを整備する。その作業に熱中していると、何かを考えたり作ったりする代わりに、考えるための器を作り続けることになる。手段と目的がひっくり返る。

昔Evernoteが流行ったときも似たようなことを言われていた。何でも保存しておけば、未来の自分が賢くなる。しかし保存したものを後から見返す人は、保存した量ほど多くない。自分も過去のメモをほとんど見ない。それでも、ときどき見つけると楽しいので、ロマンとしては理解できる。

一方で、AIに自分の記録を食わせて、雑用や繰り返し作業を自分の代わりにやらせる、という使い方ならかなり実用的だと思う。自分の好みや仕事の流儀を覚えさせて、期待する結果に近いものを出させる。これは第二の脳というより、部分的なダミー記憶を持った作業員とか、自分用のインターフェースに近い。

そう考えると、用語の問題なのかもしれない。「第二の脳」と言うから、外部記憶だけでなく思考まで複製できるように聞こえる。実際には、記憶と検索のための棚に、生成AIというそれっぽい連想装置をつないだものだ。便利ではあるけれど、出てきた文章を自分の考えだと錯覚しないためには、毎回ちゃんと第一の脳で疑う必要がある。

自分の周りで大きな成果を出している人を見ると、そんなに複雑な仕組みを作らず、A4の紙に思いついたことを殴り書きして、そのまま仕事を進めている人も多い。器を作ることが悪いわけではないが、器が立派になっただけで中身が増えるわけではない。

便利なものを使うなという話ではない。使えるものは使えばいい。ただ、外部に置いた棚を自分の脳と呼び始めた瞬間に、棚の中身を疑う視点まで一緒に外注してしまいそうなのが嫌なのだ。

増えたのは脳ではなく棚。その棚を使って何を考えるかは、まだ自分の仕事だと思う。