読んだ。上下巻、合わせて五千円近く。最後まで読んだ自分をまず褒めたい。
先に言っておくと、ものすごい駄作というほどではない。文章が読めないわけでもないし、設定もいろいろ考えてある。だからこそ、普通に面白い小説として売っていれば、ここまで腹が立たなかったと思う。
問題は、あの宣伝だ。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』『三体』に比肩する面白さ。これを見て、そんなわけあるかと思った。いや、思いながらも読んだ。ハヤカワの話題作だし、月面で謎の遺体が見つかるという導入にも惹かれた。SF好きとしては、月面の死体から人類規模の謎に繋がっていく話を期待するじゃないですか。
実際に読んでみると、期待していたハードSFとはかなり違った。SF的な謎やスケールの大きな展開は出てくるけれど、それらが有機的に繋がっていない。面白そうなアイデアや事件をいくつも並べて、その間を後から肉付けしていったように見える。引きはある。スケールも大きい。でも、読み進めるほど「この話は結局どこへ行くんだろう」と思う。
上巻は群像劇の導入が長い。人物も舞台も次々に出てくるのに、誰に感情移入すればいいのか分からない。冒頭から二重スパイめいた状況が出てきて、妻子が大事なら洗いざらい話せばいいのでは、という疑問が先に立った。そこで納得できないまま、空港がどうした、海外の土地がどうしたという描写が続くので、興味を保つのが難しかった。
人物描写も、個人的にはかなり厳しかった。特に主人公というか中心にいる少女が、死体を見つけても放置したり、他人のアカウントを乗っ取ったりする一方で、少数民族のことや道義、倫理について悩む。その組み合わせがどうにも気持ち悪い。倫理について考えること自体はいいのだけど、まず自分のやったことをどう考えているのかが見えない。背乗りに近いことをしているのに、本人があまり悪いと思っていないように感じてしまう。
モーケン族絡みの話も、たぶんかなり余計だったのではないか。テーマとして必要だったのかもしれないが、月面の謎や大きなSF的展開とどう結びついているのかが弱く、話を散らしている印象があった。タイトルも、内容とそこまで噛み合っていないように思う。
ストーリーは、ブレインストーミングで出た「面白そうな展開」を無理やり繋いだ感じがする。こういうことが起きます、こんな謎があります、ここで世界がひっくり返ります、というものは出てくる。でも、その間の人物の行動や感情が十分に積み上がっていないので、展開するたびに「そうなるの?」となる。驚きよりも、作者が次のカードを出したことへの戸惑いが勝つ。
比較対象が悪すぎる、という話でもある。『三体』だって第3部はだるかったし、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』だって誰にでも合うわけではない。それでも、あの二作を並べるなら、読者はスケールだけでなく、謎の解き方や展開の必然性、ページをめくる手が止まらない感じまで期待する。そこに届いていないものを「比肩する」と言われたら、そりゃ反動で厳しくなる。
日本SFで同じような読後感を求めるなら、個人的には小川一水の『天冥の標』や『華竜の宮』を読んだ方がいいと思う。特に『天冥の標』は本当に掛け値なしに面白い。長いけれど、長いだけの理由がある。あれと比べると、この作品の上下巻は、分量を使い切れていないように感じた。上下巻で売りたかったのかな、という感想しか残らない。
もちろん、好きな人がいることは否定しない。基本読書の人が高く評価していたし、Amazonのレビューも悪くないらしい。自分の感性が絶対だとは思っていない。ただ、読んでいる最中に「次はどうなるんだ」と貪るようにページを繰ることはなかった。休み休み読んで、最後まで読んだのは、面白かったからというより、何がそんなに駄目なのか確認したかったからだ。読み終わってから二周目をパラパラめくってしまったくらいには、原因を探したくなる本ではある。
作者には気の毒だと思う。実績のある大作家でもない著者に、編集側が「三体やPHMみたいなSFを書いてください」と注文したのかどうかは知らないが、少なくともそういう売り方をしたのは出版社だ。作品そのものより先に比較対象を提示して、期待値を無限に上げた。これで内容がそこそこなら、読者は「そこそこ」と受け取れない。
最近は本も高い。面白いか分からないものに上下巻で五千円近く払うのは、気軽な冒険ではない。しかも広告であれだけ煽られたら、買わずに評判を待つ人が増えるのも当然だと思う。文庫化やセールまで待つ、という判断はかなり合理的だ。
ハヤカワの宣伝は、時々かなり下品だと思う。売るために過去の大ヒット作を並べるのは分かるけれど、その作品を本当に同じ土俵に置けるのか、推薦する側が考えているのか疑問になる。『リーダビリティとリアリティにあふれたエンターテインメント巨編』みたいな褒め方も、他に褒めるところがないのかと思ってしまう。
この本がつまらないというより、つまらなく読まされる売り方だった、というのが一番近い。普通に「野心的な日本SFです」くらいにしておけば、ここまで反発はされなかったはずだ。誇大広告で一時的に売れても、次はこの著者を買わない、この出版社の宣伝を信じない、という学習を読者にさせるだけだと思う。
そして、これから読む人には、広告を忘れて読んでください、としか言えない。三体でもPHMでもない。一冊の、いろいろな要素を詰め込んだSF小説として読めば、まったく何もないわけではない。少なくとも、あの二作に比肩するという期待だけは、最初に捨てておいた方がいい。