今年読んだ小説のなかで、いちばん人にすすめたい本がある。なのに、いまひとつ世間の押し出しが弱い気がするので、ここで勝手に激推しする。『ゼウスガーデン衰亡史』。タイトルだけ見ると、神話か、壮大な異世界ものか、あるいは宮部みゆきの新作かと思うかもしれない。実際、表紙もかっこいいし、タイトルにも大作感がある。でも中身は、もっと変で、もっと現実に近くて、もっと読んでいるあいだじゅう落ち着かない小説だ。
まず、とにかく読みやすい。こういう話をすると、文学好きが褒める小説は難解で、何ページも進まないのではないかと思われがちだが、これは違う。文章がすいすい入ってくる。場面が変わっても人物が増えても、読者を置いていかない。そのくせ、読み終わってから振り返ると、いつの間にかかなり深いところまで連れていかれている。リーダビリティが高い、という言い方がいちばん近いのだろうけれど、単に読みやすいだけではない。読ませる力が強い。
物語の中心にいるのは、西東三鬼を思わせる俳人だ。もちろん伝記そのものではないし、実在の人物をそのまま小説にしたものでもない。ただ、あの時代の空気、言葉を武器にして生きようとする人間の可笑しさと怖さ、そして本人だけにはどうにもできない政治や世間の圧力が、かなり生々しく描かれている。
三鬼の句を知っている人なら、夏が来ると思い出すあの一句にも、きっと引っかかると思う。戦後すぐの作品なのに、男が考えていることは今とたいして変わらない。自意識、見栄、欲望、孤独、誰かに認められたい気持ち。時代が変わっても、そこだけは妙に古びない。むしろ、社会が大きく揺れているときほど、個人の小さな欲望がくっきり見える。
この小説の面白さは、主人公を偉人として扱わないところにもある。才能はある。言葉も鋭い。けれど、立派な人間ではない。臆病だし、ずるいし、他人を傷つける。自分の身を守るために見ないふりをすることもある。だからこそ、何か大きな正義の物語としてではなく、「この人は次にどうするんだろう」と読める。応援したいのか、見放したいのか、読んでいるこちらの気持ちも場面ごとに揺さぶられる。
特に印象に残ったのが、「なぜか三鬼は検挙されない」という種類の不気味さだ。何かをしたから罰せられる、何かをしなかったから助かる、という単純な世界ではない。危ない人が危ないまま残り、怯えている人が生き延び、正しいことを言った人が安全とはかぎらない。その偶然とも気まぐれともつかない力が、人物たちの神経を少しずつ壊していく。
こういう話を読むと、ミハイル・ブルガーコフの逸話を思い出す。本人は粛清に怯えているのに、なぜか権力者に気に入られ、突然電話で褒められたりする。助かったはずなのに、次はいつ捨てられるのか分からない。その不安のほうが、露骨な弾圧より長く人を苦しめることがある。『ゼウスガーデン衰亡史』にも、そういう「助かってしまった人間」の神経が描かれている。
そして、背景にあるのは、芸術と権力の話だけではない。仲間内の評判、文学史に名前を残したいという願い、才能のある誰かへの嫉妬、本人には届かない場所で決まっていく評価。どれも大げさな事件ではないのに、積み重なると人生の形を変えてしまう。書くことが自由の証なのか、書くことで人間関係に縛られるのか、その境目もだんだん分からなくなる。
途中で、過去の告発や、誰が何に協力したのかという話も出てくる。ここは歴史の知識がなくても読めるけれど、知っている人ならいっそう嫌な汗をかく部分だと思う。後世の人間は、あの人は善だった、あの人は悪だった、と簡単に整理したくなる。でも当時を生きていた人にとっては、今日を無事に過ごすことと、明日も書くことのほうが切実だったはずだ。もちろん、それで何をしても許されるわけではない。小説はその曖昧さを、都合よく片づけない。
読後感は、爽快とは言いにくい。人間の弱さがたくさん出てくるし、栄光のように見えるものにも、だいたい薄暗い影がある。それでも読んでよかったと思えるのは、登場人物が完全な記号ではなく、みっともなく生きているからだ。笑える場面もある。変な会話もある。文学者たちが文学者らしく振る舞おうとして、かえって小物っぽくなるところもある。その可笑しさがあるから、重い場面がただの重苦しい歴史にならない。
本の値段は、電子版でも気軽な価格とは言いにくい。紙のハードカバーならなおさらだ。文庫になったら、という気持ちも分かる。でも、今年一冊だけ新刊を買うならこれでもいいと思う。少なくとも、タイトルだけで判断して積読に回すのはもったいない。三鬼を知っている人にも、名前くらいしか知らない人にも読んでほしい。
それから、この本を紹介する文章を書くのは難しい。あらすじを説明しすぎると面白さが逃げるし、「すごい」「怖い」「読んで」と繰り返すだけでは、こちらの熱が空回りする。だから結局、いちばん正確な推薦文はこれになる。
面白い。すごく面白い。読んでいるあいだは先が気になってページをめくり、読み終わったあとには、登場人物が本当にどこかで生きていたような気がしてくる。歴史小説としても、芸術家小説としても、変な群像劇としても読める。夏の句を思い出す人も、俳句に興味がない人も、ぜひ手に取ってほしい。
ブームが来ているのかどうかは知らない。けれど、こういう本は、誰かが面白いと言い続けないと静かに埋もれてしまう。なので言います。今年いちばん面白かった小説の候補です。みんなで読もうぜ。