ふと「およげたいやきくん」を聴いていて、歌の中の「ぼくら」と「ぼく」は別物なのではないかと思った。毎日毎日、鉄板で焼かれている「ぼくら」は、同じ記憶を共有するたいやきの集合思念体。焼かれる前から意識があるのか、生地を流し込まれ、型にはめられた瞬間に目覚めるのかは分からない。いずれにせよ、海の底を泳いだ経験も、釣り上げられた経験も、たぶん全員に並列化されている。鉄板はサーバーで、たいやきたちはそこから複製されるドローン。タチコマみたいに、ゴーストだけは個体ごとに宿るのかもしれない。 その中から、ある朝いきなり一尾だけが自我を持った。「おじさんと喧嘩して、海に逃げ込んだのさ」という部分は、単なる脱走ではなく、共同体からの離脱宣言だ。僕らだった存在が、僕になる。集団帰属意識を失ったのではなく、集団を背負ったまま一人称だけを獲得した、と考えると急に重い。店のおじさんも、毎日同じ作業を繰り返すうち、たいやきに自分の感情を代弁させていたのかもしれない。あるいは資本家と労働者の話で、焼く側も焼かれる側も、役割から逃げられない。 それにしても、数日泳いで塩水を吸い、ぶよぶよになったたい焼きを「うまそうに」食べる釣り人は相当すごい。普通なら捨てる。食べられたあとに歌が続くのは、天国での述懐か、次の個体への記憶転送なのだろう。死んだら終わりではなく、あんこに宿ったゴーストがまた別の皮へ移る。つまり、たいやきは輪廻転生している。 まあ、幼児向けの歌にここまで深読みする必要はない。でも「ぼくら」と「ぼく」の使い分けに気づくと、ただの脱走劇には戻れない。あの一尾は自由になったのか、集合思念体から一時的に切り離されただけなのか。最後に食べられたことで、また大きな「ぼくら」へ戻ったのか。答えは歌の中にない。だから今日も、鉄板の上で焼かれる無数のたいやきに、個別のゴーストがあるのか考えてしまう。
INFERRED ARTICLE