「ナラティブ」という言葉を見るたびに、どうしても一度立ち止まってしまう。意味が分からないわけではない。物語とか、語りとか、ある立場から組み立てられた説明とか、そういうものなのだろう。けれど、文章の中に突然「ナラティブ」が現れると、それまで普通に読めていた話が、急に会議室のホワイトボードみたいになる。誰かが覚えたての言葉を、ここぞとばかりに置いた感じがするのだ。

もちろん、使うなと言いたいわけではない。ゲームの開発や医療、社会学などでは、それなりに必要な言葉なのだろう。単なる「ストーリー」ではなく、誰が、どこから、どんな経験をもとに語っているのか。その語りが周囲にどう受け取られ、現実の見え方をどう変えるのか。そこまで含めたいなら、便利な言葉なのだと思う。

ただ、便利な言葉は便利すぎる。説明が足りないままでも、説明したような顔ができる。「これは私たちのナラティブです」と言えば、事実の話なのか、理想の話なのか、宣伝なのか、自己正当化なのかが、いったん全部ぼやける。聞かされる側からすると腹立たしいが、言う側に回ると煙に巻ける。そういう性質が、流行の理由なのかもしれない。

「個人の語り」という意味で使われるなら、個人的な経験や感情を軽く扱わないための言葉として理解できる。公式の歴史や客観的な記録からこぼれ落ちたものを、別の視点から語り直す。その必要性は分かる。歴史は誰かが選び、並べ、名前を付けたものでもあるからだ。医療で患者の病名や数値だけでなく、その人が病気をどう経験しているかを聞く、という話にもつながるのだろう。

一方で、政治や広告の場に出てくると、少し警戒してしまう。都合のいい物語を、事実と同じような顔で流通させるために使われていないか。互いに自分だけの歴史観を語り、それを根拠に争っているような場面では、ナラティブという言葉が状況を整理するどころか、格好よく包んでしまうこともある。単に「この人はこう説明している」「この説明にはこういう前提がある」と書けば済むところを、横文字にすることで検討しにくくなる。

それにしても、こんなに語感で遊ばれる言葉も珍しい。奈良、恥部、底部、ティブン。鹿や寺や不動産まで出てくる。コメント欄が一斉に駄洒落へ向かうのは、元の言葉にまだ生活感がないからだろう。誰もが自然に使う言葉なら、ここまで分解して笑おうとはしない。見慣れないカタカナ語だから、音だけを取り出して遊べる。

ガンダムの作品名として知った人も多いらしい。自分も、ナラティブという単語より先に、そちらを思い出す。作品については、好きな装備や機体の話が始まればいくらでも盛り上がれるのに、タイトルの言葉の意味となると急に難しくなる。前の作品とのつながりや、あの現象をどう解釈するかという話なら、なるほどと思う部分もある。でも、作品名に採用されたからといって、日常会話で使いやすくなるわけではない。

「ストーリー」と「ナラティブ」の違いも、説明されれば分かった気になるが、実際に自分で使おうとすると手が止まる。物語なら物語、語りなら語り、言説なら言説でいいのではないか。日本語に完全な一語訳がないからこそ、その違いを保ったまま使えるという事情もあるのだろう。けれど、訳せないことが、そのまま偉そうにしていい理由にはならない。

結局、言葉そのものが嫌いというより、言葉に隠れている態度が苦手なのだと思う。意味を共有するためではなく、分かっている人だけが分かっているように見せるための使用。内容より先に「ナラティブ」と言ってしまう文章は、たしかに読む気が少し下がる。逆に、その言葉を使ったあとで、誰のどんな経験を指しているのか、何と何を区別しているのかを具体的に書いてくれれば、別に気にならない。

流行語は、流行が終わると急に古く見える。「メタ」や「イマーシブ」や、その他のそれらしい言葉も、しばらくすると別の言葉に押し出されていく。ナラティブも、いつか普通の専門用語になるのか、それとも覚えたての単語を使いたい人の記憶だけに残るのか。今のところは、聞くたびに少し身構えてしまう。

とはいえ、コメント欄で奈良と鹿の話ばかりになるくらいなら、言葉への違和感も悪くない。意味を問い直すきっかけにはなる。だから今日は、無理にナラティブを使わずに「その人が、自分に都合のいい物語を語っている」と書いておく。長いけれど、そのほうが少なくとも自分には分かりやすい。