渡辺淳一が、ミステリーでトリックを成立させるために人が死ぬのは文学として嫌だ、みたいなことを言っていたらしい。直木賞の選考での話。そこに北方謙三が「恋愛だってミステリーじゃないですか」「恋愛小説にも心中するやつがいるじゃないですか」と返して、さらに渡辺を怒らせた、という流れが面白かった。

言いたいこと自体はわからなくもない。謎を作るために、冒頭でとりあえず死体を転がして、読者に犯人を推理させる。死んだ人間はもう反論もできないし、物語を動かすための強力な舞台装置になる。あまりに便利なので、動機も背景も薄いまま「この事件が起きました、さあ謎を解いてください」とやられると、確かに人命が道具に見える。

ただ、それを「文学として嫌」とまで言うと、かなり大きな話になる。小説の中の出来事は、基本的には全部作者の都合で起きているわけで、恋愛なら恋愛で、主人公の前に都合よく魅力的な相手が現れたり、終盤に急に別れたり、場合によっては心中したりする。純文学なら人が死んでも人間の真実を描いていることになり、ミステリーだとトリックのための死になる、という線引きはよくわからない。

もちろん、死の扱い方には差がある。殺人が起きたことそのものではなく、なぜその人が殺されなければならなかったのか、残された人たちがどうなるのかまで描かれていれば、事件は単なる謎解きの部品ではなくなる。『容疑者Xの献身』なども、仕掛けだけでなく動機や人間関係のほうが強く印象に残る作品だと思う。逆に、感動させるために病人を死なせる話も、恋愛を盛り上げるために突然心中する話も、雑にやれば同じくらい作為的だ。

ミステリーには「まず事件を起こす」という様式があるので、そこが目につきやすいだけなのかもしれない。トリックが先にあって、そこから人物や物語を組み立てる作品もある。そういうものを長編なぞなぞと感じてしまう人がいるのもわかるが、逆に、作者が考えた謎を読者が追いかけること自体を楽しむジャンルでもある。探偵の勘がよすぎる、という批判に対して「探偵というのは勘がいいもの」と返した作家の話もあったが、様式をどこまで許すかは結局、読む側の好みだろう。

個人的には、人が死なない日常系のミステリーも好きだし、殺人が出てきても、その死が人物の人生や関係を変える話なら読める。反対に、何のために死んだのかわからないまま、衝撃や感動のためだけに処理される死は苦手だ。

しかし、渡辺淳一がこの主張をしているというのが、どうしても面白く見えてしまう。彼の作品だって、物語を動かすために不倫や性愛や、場合によっては死が使われる。人間の欲望を描くための装置ならよくて、推理のための殺人はだめ、ということなのだろうか。そこにはジャンルへの偏見もあるのだろう。

選考委員というのは、作品そのものだけでなく、自分の文学観を持ち込んで評価する人たちだから、こういう好き嫌いがはっきり出る議論は面白い。公平な審査なんて、最初から複数の偏った人間が集まっている以上、完全にはありえない。だからこそ、どの作品をどういう理由で評価したのか、選考の言葉を読み返すと、その人が何を文学だと思っていたのかが見えてくる。

それにしても、「人が死ぬのは文学として嫌」と言われた横で、ミステリーは冒頭で死体を転がせと言われるジャンルです、と返される状況はかなり好きだ。結局、死も恋愛もセックスも、使い方が雑なら雑だし、うまく使えば物語になる。特定の道具だけを最終兵器扱いして禁止するより、何のためにその道具を使ったのかを見たほうがいいと思う。