講談社があのザマであると認識させられた上で、というタイトルをつけたけど、書き始めてみると、そもそも「あのザマ」が何を指しているのか自分でも少し曖昧だ。たぶん、みいちゃんと山田さんのアニメ化をめぐる一連の騒ぎと、そこで売り出されたグッズと、作品を社会の暗部を描いたものとして持ち上げる言葉と、批判された途端に「これは漫画だから」と引く態度、その全部をまとめている。ひとつの出来事に見えて、実際にはいくつもの問題が重なっている。
原作を最初から最後まで読んだわけではない。広告や断片的な画像、評判を見て、気になった部分を確認した程度だ。それでも、知的障害のある女性が搾取されたり、暴力にさらされたりする展開を中心にした作品を、どういう方向でアニメにするつもりなのか、という疑問は残った。漫画なら読者が自分のペースで距離を取れる。テレビアニメになれば、広告も予告も含めて、作品の文脈を知らない人の前に広く出ていく。その違いを軽く見ていたのではないかと思う。
特に気になったのは、みいちゃんの苦境そのものより、それをどう商品として見せるかだった。あのアクスタを見たとき、単体でただちに差別だと断定できるかはともかく、悪趣味だとは思った。作中の悲惨な場面や、本人の尊厳が壊されるような場面を、キャラクターグッズとして切り出して飾れる形にする。その判断に、作品を作った側と売る側のどちらも、少なくとも一度は立ち止まらなかったのか。そこが引っかかる。
もちろん、気に入らない表現があるからといって、すぐに国が禁止しろとか、作者に描くなと言いたいわけではない。表現の自由は、政府に規制されない自由だけを意味するものでもないし、批判されない権利でもない。自由に作って発表するなら、その結果として「この見せ方は嫌だ」「この作品を広く売るのは危うくないか」と言われることも含めて引き受けるしかない。批判を全部、表現規制という言葉で片づけるのは雑だと思う。
一方で、講談社という会社全体を一人の人格のように扱うのも違う。大きな出版社なら、編集部ごとに文化も判断もずいぶん違うはずだ。児童書、少女漫画、青年漫画、文芸、雑誌、それぞれに作っている人も読者も違う。ある部署の作品や広告への疑問から、会社のすべてを悪と決めつけるのは、批判の焦点をぼかす。過去に別の作品を出していたから今回も同じ姿勢だ、と単純につなげることもできない。
それでも「出版社はただのサラリーマンの集まりだから」と言って終わらせるのも、何か違う気がする。会社が大きいからこそ、作品をどの媒体に載せ、どんな広告を出し、どの場面をグッズにし、アニメ化の際に何を説明するかを決める人がいる。作者一人に全部の責任を負わせるのではなく、企画を通した編集部や制作側にも判断の責任はある。誰か一人を吊るし上げたいのではなく、どの段階で疑問を持つ仕組みがあったのかを知りたい。
作品の中に、障害のある人の生きづらさや、周囲の人間の搾取を描く意図があったとしても、読者が必ずその意図どおりに受け取るとは限らない。むしろ、みいちゃんが迷惑な行動をするから暴力を受けても仕方ない、と読める描写が続けば、意図とは別に「こういう人間はいじめられて当然だ」という感覚を強める可能性がある。そこを作品のテーマだから、フィクションだから、とだけ言われても納得しにくい。
「聲の形」と同じにするな、という反論には同意する。あちらは少なくとも、いじめや障害を肯定する話ではなく、制作の過程で当事者団体との協議も行われていたとされる。作品の題材が重いから同じように扱えるわけではない。逆に、ウシジマくんや嫌われ松子の一生にも似た苦境の描写がある、という比較も、それだけで今回の見せ方を正当化するものではない。似た題材でも、語り方と売り方が違えば受け取られ方は変わる。
ネットでは、作品を読んでいない人まで加わって、作者、読者、出版社、オタク、障害者差別、表現規制と、次々に大きなラベルが貼られていく。自分もその流れから完全に自由ではない。レッテルを貼ると、考える手間が省けて気持ちがいい。だが、貼ったレッテルに自分の考えまで縛られる。講談社は悪い会社、批判者は規制派、読者は差別主義者、と分類してしまうと、実際にどの表現のどの部分が問題なのかを考えなくなる。
今回の件で一番嫌なのは、作品の良さを語る人も、批判する人も、いつの間にか作品そのものではなく、自分が正しい側にいることを証明するために話しているように見えることだ。作者の過去の言動を掘り返して勝ち誇る人も、批判者を「アニメが嫌いなだけ」と決めつける人もいる。そういう応酬を見ていると、みいちゃんというキャラクターが、また別の形で道具にされているように感じる。
アニメ化を中止しろとまでは、今の自分には言えない。中止すれば良心が残っている証明になるとも思わないし、続ければ即座に悪だとも思わない。ただ、テレビに広げるなら、作品の狙い、障害の描写、暴力をどう扱うのか、広告やグッズをどう考えているのかを、制作側が自分の言葉で説明してほしい。作者を守るためにも、視聴者に判断材料を渡すためにも、必要なのは沈黙や開き直りではなく、具体的な説明だろう。
そして自分は、しばらく新しく講談社の本を買わないことにする。これは会社全体への断罪ではなく、自分の財布で距離を取るというだけの話だ。過去に買った本を捨てるつもりもないし、講談社の作品を全部読まないと決めたわけでもない。出版社名だけで作品の価値を決めるほど単純な話でもない。
結局、問いたいのは「講談社は悪か」ではなく、重い題材を扱う作品を、どんな責任感で世の中に出すのかということだ。表現を止めないことと、何をしても許されることは同じではない。批判する自由も、作る自由も、売る自由も、それぞれ別にある。その違いを全部ひとまとめにして、自由か規制かの二択にしてしまうから、話がますます荒れる。自分も感情的になっているので、まずはそのことを認めた上で、作品と広告と会社の判断を分けて考えたい。