「みぃ山はどこで間違えたのか?」というタイトルにしてしまった時点で、たぶん少し間違えている。どこか一箇所にターニングポイントがあったというより、最初からいくつもの危うさを抱えた作品が、漫画という比較的狭い場所からアニメという広い場所へ出ようとしたことで、今まで見えにくかった問題が一気に露出した、という話だと思う。
前提として、作品を描くこと自体を公権力が止めるべきだとは思わない。漫画を続けるな、回収しろ、存在するな、という話と、アニメ化には反対する、という話は同じではない。表現の自由は、表現したものが必ず商品として採用され、誰からも批判されず、制作費を回収できることまで保障しているわけではない。読まない自由、見ない自由、金を払わない自由、企画に参加しない自由もある。
一方で、アニメ化への批判を全部キャンセルカルチャーとして片付けるのも違う。完成品を見てから批判しろという意見もあるけれど、原作の内容を知っていて、その内容をより広い層に届ける企画そのものに疑問を持つことはできる。放映前の批判と、制作スタッフ個人への攻撃や、作者・出版社に作品の存在ごと消せと迫ることは分けて考えたほうがいい。
みいちゃんと山田さんは、当事者や社会的に弱い立場に置かれた人を題材にしている。その題材を通して社会の構造を描こうとしたのかもしれないし、実際、序盤には「みいちゃんから見た世界」を描こうとしていたように見えた人もいる。けれど途中から、読者がみいちゃんを上から眺めて、どこまで落ちていくのかを判定し、消費する作品になったという感想もある。
ここで重要なのは、作者に社会問題を扱う資格があるかどうかを外野が審判することではなく、作品の中で当事者がどう扱われているかだと思う。複数の事例を混ぜたキャラクターを作り、障害や貧困、搾取を露悪的なエンタメにするなら、それが誰のための作品なのか、どこまでが問題提起で、どこからが見世物なのかを問われるのは当然だ。作品の外側に当事者の声や支援の回路がほとんどなく、悲惨さだけが商品として流通するなら、「社会派」と名乗ることで免責されるわけではない。
フィクションだから現実ではない、というのも半分しか正しくない。フィクションは現実そのものではないが、現実の人間がそれを読んで、言葉を覚え、他人に貼り付け、実在する人を傷つけることはある。作中の名前や属性がネット上の蔑称のように使われ始めた時点で、「これは作り話です」と言って安全圏に戻るのは難しい。作品が現実に影響を与え得ることを、作り手側だけが都合よく無視することはできない。
漫画で許されていたものが、アニメになると急に許されなくなるのはおかしい、という意見も分かる。ただ、媒体によって届く範囲が違う。小説、漫画、アニメの順に、作品に関心がなかった人にも届きやすくなる。特にテレビ放送なのか、配信限定なのか、年齢制限やゾーニングがどうなるのかが曖昧なまま、「アニメ化決定」とだけ華々しく発表すれば、受け手は一般向けの企画として受け取る。
漫画の連載誌や販売場所にある程度の文脈があったとしても、アニメ化はその文脈ごと拡大する。だからこそ、媒体を変えるなら内容だけでなく、売り方、宣伝、制作体制、レーティング、配信先まで考える必要がある。社会派を売りにするなら、社会派として再構成できる編集や監修の体制が必要だし、アングラな露悪作品として出すなら、最初からそういう作品だと引き受ける覚悟が必要だった。
今回まずかったのは、作品の危うさに対して、発表側があまりにも無邪気だったことではないか。危険な題材を扱っているのに、ヒット作を生み出した人たちの祝祭のようなテンションだけが前面に出る。作品がどう見られるか、どんな人に届くか、現実の当事者にどんな影響があるかについて考えているようには見えず、そこに後から説明や弁明が付け足される。その瞬間、「本当に考えて作っていたのか」という疑いが強くなる。
さらに悪かったのは、炎上後の対応だと思う。自分たちが話題を作り、作品を広め、刺激的なものとして売ってきたのに、実際に燃えると「なぜ炎上したのか」を自分とは無関係な出来事のように語る。火をつけた側が、火事を見て驚いているように見える。もちろん、無断転載や切り抜き、面白半分の煽りで燃えた部分はあるだろう。読者や批判者の全員が純粋な正義感で動いているわけでもない。叩くこと自体を楽しんでいる人もいるはずだ。
しかし、周囲が悪意を持っていたからといって、作品側の責任が消えるわけではない。逆に、批判する側が高尚な倫理をまとって他人を見下しているからといって、作品の問題が消えるわけでもない。当事者をダシにして自分の道徳的優位を示す人もいるし、普段は弱者を笑いものにしている人が急に正義の側に立つこともある。炎上は、火種だけでなく、そこにガソリンを注ぎたい大衆の欲望によって大きくなる。
作者が作品の外で自我を出しすぎた、という話もある。SNSで何を言うかは自由だけれど、作品だけを見せていた時には保たれていた距離や曖昧さが、本人の発言によって崩れることはある。作品が読者への手紙だったとしても、今は制作の裏側や作者の感想がすぐに流通する。切り抜かれること、過去の発言を掘られること、キャラクターと作者が混同されることを前提にしなければならない。
ただし、作画担当者や過去の関係者について、根拠の薄い断定をしてよいわけではない。誰が何を担当したのか、作者とアカウントが同一人物なのか、といった細部を巡る詮索が、本質的な議論をかえってぼかしている面もある。反社だ、女衒だ、といった強い言葉を投げるなら、なおさら事実確認が必要になる。そこを曖昧にしたまま、個人攻撃だけが拡大するのはよくない。
結局、みい山は「アニメ化したから間違えた」のではなく、危うい題材を扱う作品を、どのような商材として売るのかを最後まで理解しないまま、より大きな市場へ持ち出そうとしたところで間違えたのだと思う。漫画として成立していたことと、大手出版社が一般向けの映像作品として展開できることは別だ。売れることと、社会に出してよい形に整っていることも別だ。
それでも、炎上がすぐ鎮火する可能性はある。放映時には誰も覚えていないかもしれないし、逆にアニメの出来次第では評価が変わるかもしれない。炎上によって知名度だけが上がり、元々読まなかった人まで作品を手に取る可能性もある。だからマーケティングとしては成功だ、という見方もできる。
でも、売上や知名度が上がったら問題が癒えるわけではない。話題になったことと、当事者に届く形で何かを考えたことは違う。せめてこれから、作品を見て傷つく人がいること、現実の差別や支援の問題と無関係ではないことを、作り手と出版社が引き受けるしかない。アニメを中止するかどうかだけを争っても、次に同じことが起きる。
表現の自由を守れというなら、表現した結果として批判され、誰にも買われず、企画が見送られる自由まで含めて受け入れるべきだと思う。批判する側も、作品を消せと叫ぶ前に、何が問題なのかを分けて話すべきだ。どちらも相手を単純な悪にしてしまえば、みいちゃんを一人の人間ではなく、議論の道具として扱うことになる。
この騒動で一番見えたのは、作品の中の「みいちゃん」だけではなく、作品を作る人、売る人、読む人、叩く人の全員が、社会との折り合いをまだうまく作れていないということだった。そこを考えずに、アニメ化反対派が悪い、作者が悪い、出版社が悪い、と一つに決めれば済む話ではない。間違えた場所を一つ探すより、今後どう扱うかを考えたほうが、たぶんまだ意味がある。