件の漫画について、編集者らしき人の発言が話題になっていた。売れる作品を推すのは当然だし、会社は慈善事業ではない。数字を見て企画を進め、売れそうなら広告を出し、アニメ化の話が来れば乗る。そんな仕組み自体は、別に秘密でも何でもない。

ただ、「売れれば何でもいい」「結果を出していない編集者は無能」という言い方を、会社の看板を背負った人がそのまま口にしてしまうのは、さすがに違うと思う。売上を重視することと、売上のためなら何をしてもいいと公言することは別だ。そこをわざと混同して、現場のリアルを語ったつもりになっている感じがした。

編集者の仕事は、作品を作家と一緒に面白くすることだけではない。どう売るか、誰に届けるか、どんな反応が起きるか、起きたときにどう対応するかまで含めて考える仕事だろう。特に、現実にある差別や困難を扱う作品なら、作品の中身だけでなく、宣伝文句やインタビューの言葉、メディア展開の仕方にも責任がある。

露悪的な作品を作るな、と言いたいわけではない。人間の嫌な部分や、見たくない現実を描く作品には意味がある。読んでいて不快になるからこそ考えることもあるし、きれいごとだけでは届かない場所に届く表現もある。だからこそ、何を描いているのか、誰の視点で描いているのか、現実の被害をどう消費させるのかは慎重に考えた方がいい。

フィクションと現実の区別がつかない読者が悪い、という話でもない。読者は作品だけを読むとは限らない。編集部の宣伝、作者のコメント、アニメ化の発表、公式アカウントの投稿まで含めて、その作品の姿勢を受け取る。漫画の中では閉じていたものが、明るい宣伝と大量の広告によって、別の意味で社会に出ていくことはある。

連載時にはそこまで問題にならなかったものが、アニメ化で急に注目されたのも、単に見る人が増えたからかもしれない。映像になれば、声や動きがつき、一般の人の目にも入りやすくなる。原作を読んでいない人にも届く。そこで初めて「これは娯楽として広く売っていいものなのか」と考える人が出てくるのは、むしろ自然だと思う。

売上の数字は大事だ。数字がなければ続刊も作れないし、関わった人に給料を払うこともできない。でも数字は、何が正しいかを決める神様ではない。批判で話題になっても数字にはなるし、炎上で再生数が伸びても、作品や会社への信頼が積み上がるとは限らない。短期の売上と、長期的なブランドや読者との関係は別の指標だ。

本当に「数字がすべて」なら、売れそうな表現を片っ端から使えばいいことになる。でも実際には、出版社も広告主も配信会社も、そんな単純な運営はしていない。売れたかどうかだけでなく、何を期待されている会社なのか、どこまでなら読者や社会に受け入れられるのかを見ている。少なくとも、そういう建前を掲げているはずだ。

建前は必要だと思う。善人のふりをする、と言うと悪いことのように聞こえるけれど、他人と一緒に仕事をするための配慮や、社会の中で線を引くための言葉は、ただの偽善ではない。問題がある表現を出すなら出すで、なぜ扱うのか、何に注意してほしいのかを説明するだけでも違ったかもしれない。きれいに取り繕えというより、無邪気に喜ぶな、という話だ。

もちろん、批判する側にも都合のよさはある。普段は他人の不幸や弱者を笑う作品を楽しんでいるのに、ある題材だけ急に倫理を持ち出す人もいる。作品を買わずに叩くだけの人もいる。作る側と読む側の責任が完全に別だとも思わない。市場は、売る人と買う人の両方でできている。

それでも、企業と個人の責任を同じ重さにはできない。出版社には編集、宣伝、校閲、法務、管理職といった複数の判断がある。誰か一人の勢いで進めず、危ない部分を確認する仕組みが必要だ。監修を入れると言っていたなら、何のための監修だったのかも問われる。ガイドラインがあるなら守られたのか、なければなぜ作らなかったのかを説明してほしい。

「売れれば勝ち」という考え方は、商売の一面としては正しい。でも、勝った後に何を失ったかまで見なければ、ただの負け惜しみになる。売れる作品を作ることと、売るために何でも利用することは違う。編集者がその違いを分からないなら、数字を追う仕事にも向いていないと思う。

結局、みい山を推すなという単純な話ではなく、推すなら推すで、作品の危うさを引き受ける覚悟を持てということだ。炎上しても売上が伸びれば成功、ではなく、炎上を含めてどう責任を取るかまでが仕事だろう。売れる漫画を作らないといけないのは分かる。分かるからこそ、「そりゃ売れるものを推すでしょ」で全部済ませないでほしい。