1999年の就職活動から、俺の椅子取りゲームは始まった。正確には、その少し前から始まっていたのだと思う。景気が悪い、採用がない、会社は人を育てない。そういう話を聞きながら、周囲と同じように履歴書を書き、面接を受け、落ちた。何十社受けたかはもう覚えていない。覚えているのは、落ちるたびに「努力が足りない」と言われたことだけだ。
選ばなければ仕事はある、と言われた。実際、仕事そのものはあった。ただし、生活を安定させる仕事、将来の見通しが立つ仕事、病気や事故で倒れても戻れる仕事は、誰にでも用意されていたわけではない。椅子の数が少ないのに、音楽は止まらない。座れた人は自分の実力を語り、座れなかった人には、立ったまま努力しろと言う。そういうゲームだった。
俺は、たまたま座れた。業界の選び方がよかったのか、時期がよかったのか、面接で変なことを言わなかったのか。運がよかったのだと思う。もちろん努力はした。だが、努力した人間が全員座れたわけではないし、たいして考えずに座れた人間もいた。自分が生き残ったことを、全部自分の手柄にするほど馬鹿ではない。
だからこそ、社会保障や福祉を「人として当然だから」ではなく、保険として見ている。誰かが落ちたときに拾う仕組みがなければ、落ちた人は消えるか、誰かを道連れにする。治安が悪くなり、働ける人も安心して暮らせなくなる。災害の寄付だって同じだ。善人だからではない。明日、自分が被災するかもしれないからだ。偽善だと思うなら、それでいい。偽善でも、ないよりはあったほうがいい。
ただ、俺自身については、誰かが助けてくれるとは思っていない。団信付きのローンは終わっている。就業不能保険にも入った。障害年金の等級や金額、介護が必要になったときに入れる施設の相場も調べた。貯金と投資もしている。自分が倒れたときに、家族や国が都合よく現れて、すべてを解決してくれるとは考えていない。
これは他人にも同じことをしろ、という話ではない。俺がそうしてきた、というだけだ。助けを期待して裏切られるくらいなら、最初から期待しないほうが楽だった。困っていると口にしても馬鹿にされる。若いころにそういう経験を何度もした。優しくされなかった人間が、優しさを信じられなくなるのは、そんなに不思議なことではないと思う。
世代間の格差について、今さら理解してほしいとも思わない。俺たちが若かったころ、制度は自分たちを守るものではなかった。会社も、国も、年金も、最後には自己責任だと言った。ならばこちらも、制度を信じず、自分で椅子を探すしかない。そうやって生き残った人間に、今度は「社会を信じろ」「困った人を助けろ」と言われても、簡単には頷けない。
とはいえ、公助を否定しているわけではない。俺が使わないかもしれない制度でも、必要な人には必要だ。介護保険だって、自分が要介護になるためだけのものではない。家族や隣人や、まだ顔も知らない誰かを支える仕組みでもある。社会全体で備えるほうが、個人がそれぞれ保険を買うより効率がいいことも分かっている。
分かっているが、信頼できるかどうかは別の話だ。制度は変わる。貨幣の価値も、会社の形も、働き方も変わる。数年前には考えられなかったことが普通になる。だから、国の保障だけに賭ける気はないし、自分の備えだけで十分だとも思っていない。床が抜けることも、浸水することもある。椅子に座れたからといって、永遠に安全なわけではない。
俺が言いたいのは、勝者は偉いということではない。勝ち続けたつもりでも、実際には何度も運に助けられている。椅子を用意したのも、道を整えたのも、電気や水道を維持したのも、俺一人ではない。それでも、助けられてきたことを実感できないまま、いつか落ちる恐怖だけを抱えて生きてきた。そこを、簡単に「もっと人を信じろ」と言われると、少し黙っていてくれと思う。
若い人には、俺のやり方を勧めない。誰かに頼れるなら頼ればいい。制度を使えるなら使えばいい。困ったときに助けを求めるのは、負けではない。俺はそれができなかったし、できないままでも何とか座り続けた。けれど、俺が座れたからといって、立っている人間を蹴る理由にはならない。
椅子取りゲームに勝った、というタイトルにしたのは、勝ち誇りたいからではない。負けたら終わりだと教えられ、実際に何度も終わりかけた人間が、まだ座っていることを確認したかっただけだ。椅子がなくなったら床に座る。床がなくなったら、土間に座る。土間もなくなったら、地面に座る。そこまで落ちても、せめて自分で落ちた場所くらいは見ていたい。
ただ、できれば次の世代には、こんな確認をしなくても済むゲームを用意してほしい。座れなかった人を笑わず、座れた人にも「お前が偉いからだ」と言わず、椅子そのものを少し増やしてほしい。俺はもう、誰かに期待する気はない。それでも、期待しない人間が増え続ける社会は、たぶん誰にとっても住みやすくない。