45秒でわかる、という触れ込みのまとめを見かけた。けれど、実際に読んでみると、45秒でわかるどころか、背景を知らない人ほど何が起きているのか分からなくなるタイプの騒動だった。作品そのものの内容、作者の過去の発言、制作側の発表、SNS上の反応が全部ひとつの鍋に入って、ぐつぐつ煮えている。

話の中心にあるのは、夜の仕事や貧困、障害、地方の閉塞感など、かなり重たい題材を扱った漫画と、そのアニメ化だ。作品はもともと、実在の人物や出来事を思わせるエッセイ風の手触りと、露悪的な描写で読者を引きつけていたらしい。主人公を面白がって眺めるのか、社会の問題として読むのか、作者がどこに立っているのか。そのあたりが読者によってかなり違っていた。

漫画だから成立していた距離感が、アニメ化によって変わった。出版社や制作会社、放送や配信、出演者、スポンサーまで関係者が増える。しかも、発表の時期や告知の仕方が、過去の痛ましい事件を想起させる日と重なっていたことで、配慮が足りないのではないかという批判が出た。偶然なのか意図があったのかは外から断定できないが、少なくとも「なぜこの日に」と感じた人がいたことは事実だと思う。

さらに問題になったのが、公式側の説明だった。作品を社会派として擁護しようとしたように見える一方で、過去の宣伝や動画、作者の発言には、登場人物や特定の属性を笑いの対象にしていたと受け取られかねないものがある、と指摘された。差別や偏見を描く作品なのか、差別や偏見を消費する作品なのか。そこを整理しないまま「意義のある作品です」と言われても、納得できない人が出るのは自然だろう。

作者についても、過去の経歴や作品にまつわる説明が、時期によって食い違っているのではないかという指摘が相次いだ。夜の仕事をしていたという話を、アニメ化の段階で否定したように見える発言があり、それ以前のインタビューや漫画との整合性を疑う人が出た。実際に何が本当なのかは、公開された断片だけでは判断しにくい。ただ、創作にエッセイ的な要素を混ぜてきた作者の場合、読者は作品外の語りも含めて受け取ってしまう。そこで説明が揺れると、作品まで信用できなくなる。

一方で、作品の問題を批判することと、作者個人を面白がって叩くことは別だという意見もある。作者の発言に不快感を持つのは自由だが、根拠のない噂を膨らませたり、関係者を一括りにして非難したりするのは、批判ではなく中傷に近づく。制作側の判断を問う話が、いつの間にか作者の人格を裁く集団裁判になっている、という違和感はかなり分かる。

逆に、作者の言動は作品と切り離せないという人もいる。人の不幸や弱さを見世物にすることを売りにしていたなら、作者自身が過去の発言や態度によって評価されるのも当然ではないか、という考え方だ。過激な表現を商売にする以上、炎上した時だけ「フィクションです」「社会派です」と安全な場所に逃げるのは都合がよすぎる。作品を作る自由はあっても、その作品をどう受け止めるかまで作者が決められるわけではない。

ただ、ここにもややこしさがある。作品の中で差別的な人物や社会の醜さを描くこと自体が、直ちに差別の肯定になるわけではない。問題は、誰の視点から、どんな演出で、どんな距離感をもって描いているかだ。読者に考えさせるための表現なのか、単に笑いや刺激を得るための表現なのか。公式の説明が後付けに見えたことで、作品の意図まで疑われてしまった。

また、以前から似たような描写を面白がっていた人たちが、アニメ化をきっかけに急に「これは差別だ」と言い出したように見える、という皮肉もあった。逆に、これまで作品を消費していた人が、批判が広がると「フェミニストが火をつけた」「作品を燃やされた」とだけ語るのも、かなり一面的だ。党派性の争いに持ち込むと、作品が何を描いていたのか、制作側が何を誤ったのかが見えなくなる。

結局、最大の問題は、作品を作ったことそのものよりも、重い題材を扱う準備と、炎上した後の対応が足りなかったことなのだと思う。アニメ化では関係者が増える以上、漫画連載時と同じ感覚で進めることはできない。実在のモデルがいるように受け取られる要素、属性を笑いに使う表現、過去の宣伝との食い違い、発表日の配慮。事前に確認すべき点はいくつもあったはずだ。

公式が出した声明も、火を消すどころか、説明不足や綺麗事の上塗りと受け取られてしまった。何も言わないのが正解だったのか、もっと早く具体的に説明すべきだったのかは分からない。ただ、批判に対して相手を「放火した側」と決めつけるだけでは、納得を得るのは難しい。過激な作品ほど、表現の自由を主張するだけでなく、どんな危険があり、どう受け止められるかまで考える必要がある。

いまのところ、アニメ化が続くのか、規模や内容が変わるのか、スポンサーや配信先がどう判断するのかは見えない。作品を見たい人は見ればいいし、見たくない人は見なくていい。ただ、子どもが偶然触れられる場所に置くなら、年齢区分や告知はきちんとしてほしい。深夜枠だから大丈夫、という時代でもない。

この騒動を見ていると、作品、作者、出版社、制作会社、そして受け手の全員が、それぞれ少しずつ自分に都合のいい部分だけを取り出しているように感じる。作者は刺激的な表現で注目を集め、制作側は話題性を利用し、読者は他人の不幸を消費し、批判する側もまた作者を見世物にする。人の不幸を描いた作品をめぐって、現実の人間まで不幸を娯楽にしてしまう。そこが一番、後味の悪いところだった。

作品を批判するなら作品のどこが問題なのかを言えばいい。制作側を問うなら、発表や説明のどこが不適切だったのかを具体的にすればいい。作者の過去を掘るにしても、確認できる情報と推測は分けるべきだ。怒りや嫌悪があっても、事実と感想を混ぜないこと。それくらいしか、燃え広がった話をこれ以上ひどくしない方法はない気がする。

短いまとめでは伝わらなかったが、この件は単純に「作品が差別的だから中止」でも、「フェミニストが騒いだから炎上」でもない。重い題材を扱う作品と、作者の過去、企業の判断、発表の失敗、SNSの集団心理が重なった結果だ。誰か一人を悪者にして終わらせるには、あまりにも多くの人が関わっている。そして、だからこそ面白がって消費するだけではなく、自分もその輪の中にいるのではないか、と一度くらい考えた方がいいと思う。