最近、ある作品について「これは社会的に許されないのではないか」と書いた。自分はその作品を一度も見ていない。正確には、タイトルと、ネットで見かけた説明を少し読んだくらいで、知人に聞いた話と、チャットAIに「この作品はなぜ問題なのか」「似たような作品と比べてどうか」と質問した回答を材料にした。

AIはそれらしい文章を返してきた。原作では社会構造が六、七割、本人の弱さが三、四割くらいの描き方なのに対し、映像版では本人の転落ドラマとして見えやすくなっている、といった内容だった。自分はそれを読んで、映像版のほうが原作よりマイルドに改変されているのだと思った。そして、その流れで「では、同じ作者の別作品はどうなのか。あちらは良い作品として扱われているのではないか」と書いた。

今読み返すと、何を比較していたのか自分でもよく分からない。作品を見ていないのに、AIの文章を要約し直して、その要約を根拠に作品を批判していた。しかも、AIの文章には「マイルドになった」とは書かれていない。社会構造の描写が薄くなり、個人の責任や弱さに焦点が移った、という話なら、むしろ問題を別の方向へ悪化させている可能性もある。

コメントでそこを指摘されて、ようやく気づいた。自分は自分の読みたい結論だけを拾っていたらしい。AIの回答を貼れば、調べたような気分になれる。比較表まで出されると、なんとなく客観的に見える。でも実際には、何を学習した回答なのかも、どの作品のどの場面を指しているのかも分からない。細部を知らないまま、ネット上の薄い感想を混ぜたような説明を信じていた。

仕事でも「AIに聞いてみました」と回答文をそのまま貼る人がいる。それでいいなら最初からその人に頼んでいない。検証する側に、事実確認と誤りの訂正を丸ごと押しつけているだけだ。今回の自分もまさにそれだった。せめて質問文と回答の全文を示し、どこまでが事実で、どこからが自分の解釈なのかを書き分けるべきだった。

そもそも比較対象にした作品も、ちゃんと知っているわけではない。借金を抱えた人や依存症の人が追い詰められ、社会の仕組みと本人の選択が絡み合って転落していく作品だという程度の知識しかなかった。ドラマ版にも、原作の本質を外さず別の媒体へ移したという評価がある一方、自己責任寄りに見える改変だという評価もある。自分はその両方を確かめず、「こちらはマイルド、こちらはアウト」と単純化した。

ただ、作品を見ていないから何も言うな、で終わる話でもないと思う。社会に対する影響や、特定の弱い立場の人をどう描くかについて、作品の外から批判すること自体はできる。タブーに触れたり、良識とは別の見方を提示したりするのが文学やエンタメの役割だという意見も分かる。何でも平和で無害な作品だけにすればいいとは思わない。悪趣味さを承知で、その悪趣味さを利用して社会の現実を見せる作品もある。

一方で、どんな作品でも「社会への注意喚起だから」で免罪されるわけではない。現実には流動的な弱者の属性を描く場合と、現実でも固定された少数派の属性を笑いや恐怖の材料にする場合では、受け手への影響が違う。そこを区別せず、別の作品を叩き棒にして「こっちは許されているのだから、あれもいいだろう」と言うのは、ただの詭弁になりやすい。

結局、自分がやったのはその逆だった。見ていない作品をAIに説明させ、その説明をさらに自分に都合よく読んで、別作品との比較で結論を補強した。作品そのものを語ったつもりで、実際には自分の偏見と、AIが作ったもっともらしい文章を語っていた。

次からは、最低限、実物を見る。見られないなら見ていないと書く。AIに聞くとしても、回答は資料ではなく仮説として扱い、固有の場面や設定は自分で確認する。分からないことを分からないまま口に出す効率化なんて、他人に検証コストを払わせているだけだ。

「じゃあ別の作品は良いのか」と言う前に、まず自分は何を見て、何を根拠に、何を批判しているのかを確認するべきだった。今のところ、その問いに答えられるほど自分は作品を知らない。