『みいちゃんと山田さん』について、山田をなぜ「天才」にしなかったのか、という話を読んだ。読んでいてまず思ったのは、これは山田の才能の有無だけを論じる話ではない、ということだった。

壮絶な人生を送るみいちゃんと、それを見つめ、言葉にし、場合によっては物語にしようとする山田。普通に考えれば、二人を対照的に置くなら、山田は創作の才能に恵まれた人物として描かれるのかもしれない。みいちゃんの人生を作品へ昇華する天才。そのほうが構図としては分かりやすいし、読者も「この人は特別だから、こういうものを描けるのだ」と納得しやすい。

でも、山田はそうならなかった。漫画家になりたいと言いながら、具体的な努力をしているわけでもなく、持ち込みに失敗しても、その失敗を引き受けて前に進むわけでもない。レンタルビデオ屋で夢を語る姿には、才能の片鱗よりも、何もしていない自分を何となく分かっていながら、まだ夢を手放せずにいる人間の情けなさがあった。

そこを「痛いオタク」として笑うか、教育虐待や自尊心の傷の結果として読むかで、印象はかなり変わる。山田は頭が悪いわけではない。むしろ、みいちゃんの言動を観察し、周囲の反応を言葉にする程度の理解力はある。ただ、自分自身については同じように見通せない。人のことは分析できるのに、自分が何を欲しがり、何から逃げ、どこで他人を見下しているのかは見えにくい。

この意味で山田は、作者の分身なのだと思う。完全な自己紹介としての分身ではなく、作者の中にある観察者、創作者、批評家、そして凡庸さへの恐怖を切り出したような存在だ。だからこそ、山田を天才としてしまうと、作品の構造が少しきれいになりすぎる。みいちゃんの悲惨さを見て、それを正確に表現できる能力があるなら、山田は読者より一段高い場所に立ててしまう。しかし実際の山田は、みいちゃんを見ているようでいて、みいちゃんを通して自分を見ている。読者もまた、山田の視線を借りてみいちゃんを見ている。

山田は、みいちゃんとは別の意味で生きづらい。みいちゃんには福祉や医療につながる道が示されることがあるが、山田の困難はもっと曖昧だ。明らかに支援が必要なほどではない。会話もできるし、働くこともできるし、他人に正論を言うこともできる。それでも、家族から受けた傷やコンプレックスを抱えたまま、自分が普通の側にいるのか、落ちこぼれの側にいるのかを決められずにいる。だから、自分よりはっきり「ダメ」に見える存在を前にすると、助けたい気持ちと、見下して安心したい気持ちが一緒に出てくる。

ここがこの作品の嫌なところであり、同時にリアルなところでもある。善良な一般人としてみいちゃんを助けようとする人も、無理だと分かればすぐ離れる。山田も、みいちゃんに対して正しいことを言いながら、自分が同じ立場に置かれると同じような振る舞いをしてしまう。母親の行動をなぞってしまう場面も含めて、山田は「観察している側」にいるつもりで、いつの間にか観察される側へ移っている。

だから、山田を天才にしなかったのは、みいちゃんとの関係を友達として成立させるためでもあるのだろう。山田が突出した才能の持ち主なら、二人は同じ地面に立てない。みいちゃんは彼女の人生を提供し、山田はそれを材料に作品を作る。そうなると、二人の間にはどうしても搾取する側とされる側の線が引かれる。山田が凡庸で、未熟で、みいちゃんを完全には理解できないからこそ、二人は同じように傷つき、間違え、相手を必要としてしまう。

もちろん、これを作者が最初からすべて計算していたとは思っていない。物語を描いているうちにキャラクターがそう見えてきた可能性もあるし、山田の凡庸さが作品にとって秀逸な仕掛けになったというより、作者が自分を天才として描くことに抵抗があっただけかもしれない。作者自身がどういうつもりだったかは、作品から断言できない。

そもそも作品は、作者の意図だけで決まらない。山田を作者のオルターエゴと読む人もいれば、単にみいちゃんの隣にいる普通の女子として読む人もいる。山田の創作志望を、社会問題を見物する読者の姿として読む人もいれば、ただの笑える未熟さとして読む人もいる。どれか一つが正解ということではなく、読者がどこを見ているかによって、同じ場面の意味が変わる。

ただ、読んでいないページを読んだように語ることと、読んだうえで批判することは別だと思う。ネットに切り取られた数ページだけで作品全体を決めつけるのは危うい。一方で、作品を全部読まなければ、社会に出た表現への疑問を口にしてはいけない、というのも違う。問題になっているのは、物語の細部を正確に把握しているかだけではなく、障害や夜職や虐待を扱う作品が、現実の人にどう届くかということだからだ。

「作品を読めば分かる」と言う人は多い。でも、読めば必ず誤解が解けるわけではない。読み手が作品から持ち帰るものは、作者が置いた意図とは限らない。みいちゃんという呼び名が軽い差別語として広まるかもしれない、という懸念も、作品の深さを論じることとは別に考えなければならない。

それでも、山田を天才にしなかったことには意味があると思う。天才にすれば、みいちゃんの悲惨さを作品へ変換する力が山田に与えられる。その力は、彼女を救う代わりに、彼女を永遠に素材にするかもしれない。山田はそこまでの力を持たない。だから、みいちゃんを利用しながら、同時にみいちゃんに振り回される。彼女を語ろうとする自分自身の浅さから逃れられない。

そして、その山田を見ている読者も、完全に安全な場所にはいられない。みいちゃんをかわいそうだと思うことも、腹立たしく思うことも、面白がることも、全部がただちに悪ではない。ただ、自分はいま何を見て、何を消費しているのかを、ときどき考えたほうがいい。救いのある物語でなければならないとも、読者は消費者になってはいけないとも思わない。ページをめくりながら、気持ちよく断罪している自分を見失わないこと。それくらいしか、読者にできることはないのかもしれない。

山田は天才ではない。たぶん、最後まで天才にはならない。その凡庸さは、作品の弱点にも見えるし、みいちゃんと並んで立つための条件にも見える。作者がどこまで考えていたかは分からない。でも、山田が「自分は特別ではない」と知ることと、それでも他人を語りたいと思ってしまうこと。その矛盾を描くなら、天才ではない山田のほうが、ずっと逃げ場がない。