「みい山が問われるべきもの」というタイトルで書くなら、最初に断っておきたい。私はこの作品を何話か読んだだけで、熱心な読者でもなければ、作品の良し悪しを細部まで論じられる立場でもない。だから、みい山は駄作だ、読むべきではない、と言いたいわけではない。
ただ、いま起きている批判の中心は、作品の内容そのものというより、何をどのような態度で世に出したのか、ということなのだと思う。
障害のある、あるいは社会的に弱い立場に置かれた人物を描くこと自体が問題なのではない。残酷なものや醜いもの、胸糞の悪いものを描く自由もある。問題は、それを描く側がどこまで引き受ける覚悟を持っているかだ。
露悪的に描くなら、最後まで露悪的であればいい。これは現実の弱者を笑いものにする作品です、読者はその笑いに加担しています、と突きつけるなら、まだ作品としての筋は通る。けれど、弱者が一方的に傷つけられ、上の階層にいる人間や読者がそれを覗き見して楽しむ構図を作っておきながら、道徳的な顔もしてしまう。その中途半端さが気になる。
『ウシジマくん』のような作品と比較されることがあるけれど、あちらは登場人物が転落していく過程に、立ち止まる機会や選択肢が描かれていた。愚かさや悪意だけでなく、本人が何を選び、何を選ばなかったのかがある。現実の事件を下敷きにした露悪性も、単に弱者をボコボコにして気持ちよくなるためのものではなかったと思う。
一方で、みい山には、弱者が弱者として固定され、その不幸や失敗を周囲が消費する構造が強く見える。レディコミや、広告で流れてくる「スカッと漫画」に近い、と感じた人がいるのも分かる。キャラクターを痛めつけ、読者の嫌悪や優越感を刺激し、最後に何らかの感情を回収する。その売り方自体は珍しくないが、それを障害や差別の問題と結びつけるなら、もっと慎重さが必要になる。
しかも、キャラクターは可愛い萌え絵で描かれている。美少女だから物語が始まり、可愛いから読者が近づき、可愛いから商品になる。もしデブで、醜くて、誰も欲しがらない造形だったら、同じ物語が同じように消費されたのか。ここには、弱者を描くことと、弱者を可愛い商品に加工することのねじれがある。
とりわけ引っかかったのが、グッズや宣伝の展開だった。アクリルスタンドに「あたり」をつけるような売り方は、作品内の露悪性とは別の次元で、キャラクターの不幸や傷つき方をそのまま消費物にしているように見える。もちろん、アクスタを作ること自体が悪いわけではないし、原作ベースのグッズを出すことも普通にある。ただ、この作品でそれをやるなら、どう受け取られるかまで考える必要があったはずだ。
アニメ化についても同じだ。原作を読んでいない人や、子どもを含むより広い層に届くなら、もともとの文脈から切り離された解釈が生まれる。深夜放送だから十分なゾーニングになるとも思えない。可愛い絵柄で、SNSで話題になっていて、動画や広告で拡散される作品なら、子どもに届かないと考える方が不自然だろう。
だから、制作側が監修をつけること自体は悪くない。むしろ必要だと思う。けれど「監修をつけます」と言えば済む話でもない。何を問題として認識し、どの表現をどう扱い、誰に向けて届けるのかが見えなければ、単なる免罪符にしか見えない。原作者や編集部が、作品をどんなものとして売りたいのかを曖昧にしたまま、SNSの反響と市場だけを見て商品化やアニメ化に進んでいるように感じられることが問題なのだ。
作品単体は評価していたのに、最近のマーケティングを見て「作者が本当にやりたかったのはこれなのか」「亡くなった友人との思い出を種にして始めたものを、部数や話題性に乗せられて見失っていないか」と思う人がいるのも無理はない。作者が何を考えているかなど外から断定はできないが、そう見える売り方をしてしまった責任は制作側にある。
批判する側にも問題はある。作品を読んでいないのに、アクスタや編集部の動画だけを根拠に作品全体を断罪したり、作者や編集者の人格攻撃に移ったりするのは違う。反対するなら、どの場面の、どの描き方が、なぜ駄目なのかを言うべきだ。「みい山は悪い」という結論を先に置き、後から理由を探しているだけの言説も多い。
ただ、批判が雑だからといって、制作側の姿勢への疑問まで無効になるわけではない。作品の自由と、売り方の自由は同じではない。表現の自由があるから何をしても批判されない、ということにもならない。アニメ化やグッズ展開によって露出が広がれば、原作を知らない人にも届く。そのとき何が起きるかを考えるのも、送り出す側の仕事だ。
この作品に関して問われるべきなのは、障害者を描いたことそのものではない。残酷な表現を使ったことでもない。問われるべきなのは、弱者の不幸を見世物にする構造を作りながら、それをどこまで自覚していたのか、そして自覚していたなら、なぜそれを引き受ける態度を最後まで示さなかったのか、ということだ。
狂人のふりをして大路を走るなら、最後まで狂人として走り抜ければいい。道徳者の顔をするには隙が多すぎるのに、売れる形に整え、話題になったら商品にし、広く届けようとする。その姿勢が、作品の露悪性をいっそう嫌なものにしている。
結局、みい山が問われるべきものは、作品の存在ではなく、作品を取り巻く共犯関係なのだと思う。作者、編集部、宣伝する側、そしてそれを覗き見して楽しむ読者。その全員が、何を見て、何を消費しているのか。そこまで問われる覚悟がないのなら、最初から「考えさせられる作品」や「社会を描く作品」の顔をしない方が、まだ誠実だった。