夏休みの予定が何も決まらないまま、朝のニュースを眺めていたら、兵庫県の地図だけが妙にこちらを見返している気がした。気のせいだと思ってテレビを消し、冷蔵庫を開けた。中には麦茶と、いつ買ったのか分からない神戸牛風のソーセージしかなかった。

その日の午後、私は県庁を見に行くことにした。いや、正確には県庁ではなく、県政の中心にあるらしい建物だ。地図を見れば元町駅の近くで、三宮ではない。兵庫県民なら当然知っていることらしいが、私は西日本の人間ではないので、三宮へ向かってしまった。着いたのは市役所だった。

「ここが独立国の首都か」

口に出した瞬間、警備員に見られた。私は何でもない顔をして、海辺へ歩いた。神戸の街は明るく、坂は急で、山と海が近い。にもかかわらず、県境を越えたあたりから空気が濃くなる。西へ進むほど、道路標識の文字が少なくなり、最後には「岡山のようなもの」と書かれた板が立っていた。佐用町はほとんど岡山だ、という誰かの声が聞こえた気がした。

山奥には、かつて豪農が住んでいたという屋敷があった。門は開いていた。中から蓄音機の音がする。重厚というより、針が古いレコードを懸命に引っかいている音だった。

屋敷の主は、長い廊下の奥で書類を読んでいた。名前は聞かなかった。聞かなくても、周囲の人々が「井戸」と呼んでいたからだ。井戸は井戸でも、地面に掘ったものではない。人の不満や説明不足や、昔からのしがらみを全部吸い込んで、底の見えない怪物になったような井戸だった。

「ここは兵庫ではない」

彼は言った。

「播磨でも但馬でも淡路でもない。ここは、兵庫という言葉から覆いを取った場所だ。明らかになったものを、誰も見たがらない場所だ」

原義がどうとか、映画の題名がどうとか、私は考えた。考えたが、腹が減ったのでソーセージを食べた。すると庭の向こうで、別の男が立ち上がった。海原と呼ばれていた。かつては巨大な存在に見えたが、いま見ると、ただ声の大きい小役人にしか見えない。

「権力は孤独だ」

海原が言った。

「この土地を治める者は、血塗られた手で書類をめくらねばならない」

「いや、フィクションに現実を混ぜるのはよくないと思います」

私はそう言った。誰に向けた発言なのか、自分でも分からなかった。兵庫の話をしているはずなのに、どこかで選挙や会見や、ニュース画面の向こうの騒ぎが混ざっている。混ざっているが、ここで起きていることは全部作り話だ。作り話でなければ困る。

屋敷の裏手には、古い井戸があった。人々はそこを避けて歩いた。井戸の中から、無数の声がする。

「説明しろ」 「説明するな」 「責任を取れ」 「まだ終わっていない」

声は互いに矛盾していた。誰かが良かれと思って決めたことも、誰かが正義だと思って怒ったことも、井戸の中では同じ濁った水になった。

遠くで、朝のナパームは格別だ、と誰かが呟いた。もちろん朝ではない。兵庫の山中で、ナパームが燃えているわけもない。ただ、言葉だけが映画から逃げてきて、夏の空気に貼り付いていた。

門の外では、休みを取れない人たちが行列を作っていた。私もその一人だった。誰かが麻雀卓を運び込み、四人が無言で牌を積み始めた。鷲巣式にする、と言っていたが、透明な牌は一つもなかった。

「ディレクターズカットでは、もっと長くなるんですか」

誰かが聞いた。

「たぶん。いらない場面まで増える」

私は答えた。

帰り道、屋敷の上空をヘリコプターが飛んだ。中から中佐らしき男が身を乗り出し、姫路港を爆撃しろと叫んでいた。もちろん爆撃はされなかった。神戸牛の首も落ちなかった。世界はそこまで親切に、あるいは乱暴に、映画の真似をしてくれない。

駅に戻ると、夕方の街は普通だった。県庁の場所を間違えたことを思い出し、地図を開いた。元町駅の方が近い。私は深く反省した。

それでも、あの屋敷と井戸が実在したような気がしている。兵庫のどこかに、誰にも見えない独立国がある。そこでは権力も正義も怒りも、古い蓄音機の針のように同じ溝を回り続けている。

次は福岡編に行こうと思う。行けるかどうかは分からない。まずは休みを取らなければならない。