このタイトルを付けてしまったことについて、まず謝らないといけないと思う。書いている途中から、これは強すぎる、雑すぎる、当事者を一人の人間ではなく記号にしている、と何度も感じていた。それでも目を引く言葉を残してしまった。問題を伝えたい気持ちがあったとしても、言葉で誰かを踏みつけていい理由にはならない。
ここでいう「みいちゃん」は、ある漫画に出てくる人物の呼び名だ。境界知能や発達の特性があり、困りごとを抱えているのに、制度の対象としてははっきり認識されにくい。重度の知的障害者や精神科病院に長期入院している人を、みいちゃんと一括りにするのは間違っている。障害の程度も、診断も、生活してきた環境も、必要な支援も違う。そこを飛ばして「社会からこぼれた人」という一点だけで重ねたのが、今回の文章の最大の欠陥だった。
滝山病院について考えたかったのは、報道されたような虐待や過剰な治療、病院の経営の問題を、単に「悪い人がいた」で終わらせてよいのか、ということだった。けれど、そう考えた結果として、病院にいる患者さんたちを「最終処理場に送られた人」と表現してしまった。本人や家族、そこで働いてきた人たちの具体的な生活を知らない外側の人間が、まとめて廃棄物のように扱う言葉を使うのは、批判のつもりでも別の暴力になる。
精神科病院にいる人たちは、みいちゃんとは限らない。統合失調症などの精神疾患を抱える人、認知症の人、身体疾患と精神疾患を併せ持つ人、住む場所や家族の支援がなくて社会的入院になっている人もいる。重度の知的障害がある人の多くは、精神科病院ではなく、障害者支援施設や療養の場につながる。制度上の区別を知らずに、すべてを「障害者」と呼ぶこと自体が、見えなくする行為だった。
では、まったく別の話なのかというと、私はそうも思えない。別の問題を無理に同一視するのではなく、福祉や医療の制度からこぼれた人が、本人の意思や希望より先に、受け入れ先の都合で場所を決められてしまうことがある、という共通点を見たい。診断がつかない。家族が疲弊している。暴力や自傷がある。お金がない。本人は支援を拒む。支援者も人手も足りない。そういう条件が重なると、本人にとって最善の場所ではなく、「今すぐ引き受けてくれる場所」に流れてしまう。
ただし、受け入れ先があることと、その場で犯罪や虐待が行われることは別だ。必要な病院や施設が少ないからといって、暴行や不要な医療行為が許されるわけではない。むしろ、選択肢が少ないために患者や家族が逃げられず、外部からの監視も届きにくいなら、より厳しいチェックが必要になる。褥瘡の有無、身体拘束、投薬、治療方針、本人への説明、家族への報告。記録だけでなく、現場の状態を繰り返し確認する仕組みが要る。
経営者の報酬や病院の利益についても、数字を見つけただけで何でも断定できるわけではない。経常利益と報酬の関係には会計上の注意が必要だし、単年度の数字だけで経営全体を語ることもできない。それでも、医療を必要とする人を受け入れることで収入が生まれ、その判断をする側と利益を得る側が近すぎるなら、利益相反を疑い、第三者が検証できるようにするべきだと思う。医療が金銭と無関係でないこと自体が悪なのではなく、患者の利益を最優先にするための歯止めが弱いことが問題だ。
「社会がその病院を必要としていた」という言い方にも抵抗がある。社会という大きな主語で語ると、誰が何を決め、誰が見過ごし、誰が利益を得たのかがぼやける。行政の予算、医療保険の仕組み、病院の人員配置、家族の負担、地域の受け皿、現場の倫理。複数の要素を分けて見なければならない。社会全体のせいにしてしまうと、明日から何を変えればよいのかが分からなくなる。
一方で、家族だけに責任を負わせるのも違う。暴力を繰り返す人を家で支え続けるのは不可能な場合がある。支援を拒む人を、本人の同意なしにどこまで介入できるのかという難しさもある。本人の権利を守ることと、本人や周囲の安全を守ることが衝突する場面は現実にある。だからこそ、家族の献身や職員の善意だけに依存せず、複数の専門職と第三者が関わり、方針を見直せる制度が必要になる。
自分の身近にも、言葉で意思を伝えることが難しい人がいる。何を望んでいるのか分からないとき、周囲はつい「本人のため」と言って決めてしまう。食事、薬、外出、入浴、住む場所。小さな選択を奪われ続けると、その人の人生は支援計画の中だけに閉じてしまう。意思決定支援とは、本人の代わりに正解を決めることではなく、本人が選べるように時間をかけ、伝え方を工夫し、嫌だという反応も含めて読むことなのだと思う。
高齢者の問題とも接続する。ただ、年を取って認知機能が下がった人を「みいちゃん」と呼ぶのも、重度障害者を同じ呼び方でまとめるのも、やはり違う。誰でも弱る可能性があるという話は、個々の違いを消すためではなく、支える側と支えられる側が固定されていないと知るために使うべきだ。独身者が増え、家族だけでは介護できず、病院や施設も足りなくなるなら、なおさら公的な支援を増やす必要がある。
今回、漫画の登場人物の名前を隠語のように使ったことで、私はその人物を社会の議論に勝手に連れ出してしまった。作品が提起した「福祉につながれなかった人」の問題と、特定の病院で報じられた問題を重ねるなら、どこが同じでどこが違うのかを丁寧に書くべきだった。炎上しやすい言葉を借りて、別の話を分かったように説明するのは、問題提起ではなく近道だった。
だから、タイトルも含めて撤回したい。病院や施設を必要とする人を、処分される物のように呼ばない。病院で働く人の地道な仕事を無視しない。問題を告発するなら、確認できる事実と自分の推測を分ける。患者の尊厳を守ることと、経営や制度を批判することは両立する。むしろ、両立させなければならない。
明日から何をするのか、と聞かれると、立派な答えはない。報道や公的な検証資料を読む。支援を必要とする人を、診断名や施設名だけで判断しない。身近な人の「困っている」を、本人の性格の悪さで片づけない。制度を利用できる人だけでなく、利用できない人がなぜそこにいるのかを考える。そして、強い言葉で社会を断罪する前に、その言葉が誰を傷つけるかを考える。
悲惨な出来事を見て、社会が変わらなければならないと思うこと自体は間違っていない。けれど、変えるべきなのは、弱い立場の人をさらに一括りにする言葉ではない。本人の声が届く仕組み、家族が孤立しない仕組み、職員が疲弊して隠蔽に加担せずに済む仕組み、利益と治療の判断を監視する仕組みを、具体的に作ることだ。
私は、分かったつもりで大きな言葉を使った。そのことから逃げずに、まず訂正する。みいちゃんは隠語ではない。患者は収益を生む身体ではない。病院も施設も、人を消す場所であってはならない。そして、そうならないように見張る責任を、「社会」という曖昧な誰かに預けないこと。少なくとも、次に書くときはそこから始めたい。