最近、辺野古で起きた事故について書かれた遺族のnoteを読んだ。読んだ、といっても全部を何度も読み返したわけではない。重い内容なので、途中で画面を閉じた箇所もある。それでも、そこに繰り返し出てくる「なぜ」という問いを、単なる執着や嫌がらせのように扱う反応には、どうしても違和感が残った。

子どもが学校行事の延長で乗った船で亡くなった。しかも、事故に至るまでの判断や安全管理について、遺族が納得できる説明を十分に受けられていないらしい。そういう状況なら、なぜそうなったのか、誰が何を判断したのか、危険を知る機会はなかったのか、と尋ね続けるのは自然なことではないか。答えが出るまで質問が続くのは、質問する側の性格が過激だからではなく、答える側の説明が終わっていないからかもしれない。

そこで「なぜハラ」という言葉を持ち出す人がいる。何度も理由を聞かれること自体をハラスメントと呼ぶらしい。職場で、相手の権限や知識を越えた回答を延々と迫るような場面なら、そういう整理が必要な場合もあるだろう。ただ、今回のように人命が失われ、組織の活動や安全対策が検証されている場面まで、同じ言葉で一括りにしてよいのかは疑問だ。

原因究明と個人攻撃は別だ。遺族の怒りをそのまま誰かへの断罪に変えてよいとも思わない。事実と推測を分け、確認できないことは確認できないと書き、責任の所在も手続きに沿って明らかにするべきだと思う。だからこそ、最初から遺族の問いを「度を越している」「左派の攻撃だ」と決めつけるのは違うのではないか。

事故のあとに必要なのは、関係者が責任を押しつけ合うことでも、政治的な立場を競うことでもない。何が起き、どんな判断が重なり、どの時点で危険を止められたのかを、第三者にも検証できる形で示すことだ。再発防止を本気で考えるなら、「なぜ」は一度で終わらない。表面的な原因のさらに奥を確認し、仕組みを直すまで問い直す必要がある。安全管理の現場でいう、いわゆる「なぜなぜ分析」に近いものだ。

遺族がいつまで問い続けるかを、外野が勝手に決めることはできない。悲しみ方にも、納得に至る時間にも、他人が期限を設定する権利はないと思う。もちろん、ネット上の言葉が誰かを傷つけることはあるし、事実に基づかない中傷や個人への脅しは許されない。でも、責任ある組織に説明を求めることまでハラスメントと呼ぶなら、事故の検証そのものが封じられてしまう。

結局、今問われているのは「遺族が静かにすべきか」ではなく、なぜ遺族がここまで自分で問い続けなければならない状況になっているのか、だと思う。そこを飛ばして、問い方の強さだけを問題にするのは、順番が逆ではないか。