俺の上司は女性だ。
しかも、俺より三つ年下だ。
最初にそれを知ったときは、まあ、別にと思った。年齢なんて仕事には関係ないし、実際、彼女は仕事ができた。朝イチの会議で、「アンタさぁ、これ昨日の段階でチェックしてないわけ?」と容赦なく詰め寄ってくるし、ミスを見つけるのも早い。口も悪い。機嫌が悪い日は、フロア全体がなんとなく静かになる。
俺はいつもタジタジにさせられていた。
ただ、仕事を離れると意外に普通だった。
ある日、残業が終わって会社を出たところで、彼女に声をかけられた。
「ねえ、今日このあと空いてる?」
「え、俺ですか」
「ほかに誰がいるのよ。パーッと行くわよ、パーッと」
断る理由もなかったので、駅前の店に入った。彼女は酒が強かった。俺も飲めるほうだが、彼女のペースにはついていけない。
「アンタ、昼間はあんなにおどおどしてるのに、飲むと生意気ね」
「それはそっちが怖いからですよ」
「へえ。怖いんだ?」
そう言って、彼女は少しだけ笑った。
会社では見たことのない顔だった。
それから、何度か二人で飲みに行くようになった。仕事の愚痴を聞いたり、昔の話を聞いたりした。彼女は社長の娘でもなければ、特別なコネがあるわけでもない。ただ、誰より早く来て誰より遅く帰るタイプだった。
「私だって、好きで上司やってるわけじゃないからね」
酔った彼女がそう言ったことがある。
「じゃあ、辞めればいいじゃないですか」
「アンタ、簡単に言うなあ」
そのとき、彼女が俺の肩に寄りかかってきた。
酒の匂いがした。いつもきっちり結んでいる髪も少し乱れていて、眼鏡の奥の目がぼんやりしている。俺の知っている上司とは別人みたいだった。
店を出るころには、彼女はかなり酔っていた。
「タクシー呼びますよ」
「いらない。歩ける」
歩けていなかった。
結局、俺が支えながら大通りまで連れていった。そこで彼女が急に立ち止まった。
「……気持ち悪い」
「えっ」
「ちょっと、そこ、誰もいない?」
「いや、ここはまずいですって」
「じゃあ、どこならいいのよ」
近くの建物の脇に移動した。背中をさすると、彼女はしばらく黙っていた。俺は救急車を呼ぶべきか、水を買うべきか、そもそもこの状況を誰かに見られたらどうなるのかで頭がいっぱいだった。
しばらくして、彼女が顔を上げた。
「ねえ」
「はい」
「アンタさ、私のことどう思ってる?」
酔っ払いの質問だと思った。
でも、目は笑っていなかった。
「どうって……怖い上司です」
「それだけ?」
「あと、仕事はすごくできる人です」
「つまんない答え」
彼女はそう言って、俺のネクタイをつかんだ。近い。近すぎる。普段なら絶対にありえない距離だった。
心臓が変な音を立てた。
「ちょっと、課長。酔ってますよね」
「酔ってるよ」
「明日、覚えてないとか言わないでくださいよ」
「覚えてるかもね」
彼女は俺の胸元に額をつけたまま、しばらく動かなかった。
俺はどうしていいかわからず、ただ立っていた。ここで変なことをしたら、明日から会社にいられない。しなかったとしても、たぶん何かが変わる。
やがて彼女が、ものすごく消え入りそうな、甘えた声でボソッと言った。
「……うん。じゃあ、出していいよ」
その瞬間、俺は反射的に彼女の肩を支えた。
次の瞬間、彼女は建物の脇に盛大に吐いた。
俺はコンビニで水と袋を買い、タクシーを呼んで彼女を自宅まで送った。翌朝の会議では、いつもどおりの顔で「アンタさぁ、これ昨日の段階でチェックしてないわけ?」と詰められた。
俺は何も言わなかった。
彼女も、何も覚えていないようだった。
ただ、会議が終わる直前、目が合った。
ほんの一瞬だけ、彼女の口元が笑った気がした。