「う回」という表記を見かけるたびに、どうしても一瞬だけ意味の理解が止まる。

迂回。これ、そんなに難しい漢字だろうか。もちろん「迂」は常用漢字ではないし、新聞や公的な文章では常用漢字以外を使わない、というルールがあるのも知っている。だから「う回」と書かれている理由自体は謎ではない。謎なのは、そのルールに従った結果、かえって読みにくくなっていないかということだ。

漢字は単語のまとまりや意味を目で分からせる働きがある。「う回」だと、最初の「う」が何なのか一瞬分からない。ひらがなの助詞や語尾に見えるし、「う」が何かの接頭語なのか、前後の文章とつながった別の表現なのかも判然としない。「迂回」という単語を知っている人なら脳内で補えるけれど、知らない人にとっては、そもそも何と読む言葉なのか分からないままではないか。

同じような表記は昔からいろいろある。「破たん」「補てん」「隠ぺい」「ひっ迫」「まん延」「ろ過」「手りゅう弾」「狭あい道路」など。常用漢字にない字をひらがなにする、という基準は一応あるのだろうけど、単語の途中だけがひらがなになると、文字の見た目としてかなり不安定になる。

「麻しん(はしか)」なんかも、初めて見たときは何のことか分かりにくい。「処方せん」も、せんだけが残っているのを見ると、これは何かの動詞なのかと思ってしまう。「耕うん機」も、簡単そうに見える「うん」の部分をなぜひらがなにするのかと思っていたら、元の字は「耕耘」だと知って納得した。納得はしたけど、読者にそこまで元の漢字を推測させるのはどうなんだろう。

せめて熟語はそのまま漢字で書いて、必要ならルビを振ればいいと思う。漢字を読むのが難しい人への配慮なら、全部をひらがなに近づけるより、意味を保ったまま読みを補ったほうが親切ではないか。「迂回(うかい)」なら、単語の形も分かるし、読めない人も読める。新聞やネット記事なら、ルビを使う技術的な問題も昔ほど大きくないだろう。

一方で、常用漢字を増やせばいいという話も簡単ではない。子どもが覚える負担は増えるし、漢字をやたらに増やせば読みやすくなるとも限らない。漢字を制限する考え方には、より多くの人が文章にアクセスできるようにする、という事情があったのだろう。難しい漢字を並べて分かった気になる文章への反動もあったはずだ。

ただ、今の「交ぜ書き」は、漢字を減らしたことで文章が分かりやすくなったというより、漢字とひらがなの境目が不自然になって、かえって単語の意味を取りにくくしている例が多い気がする。読むのと書くのでは漢字の難易度が違うのだから、手書きの負担を減らすための制限を、そのまま印刷物や画面上の文章に適用し続ける必要はないのではないか。

それにしても「う回」は、見れば見るほど別の連想が出てくる。かもめんたるの岩崎う大さんを思い出すし、「鵜回」と脳内変換されて、鵜が登場するアニメの神回みたいにも見える。「う巻き」の親戚かと思ったり、「やきゅう回」「水着回」のような何かの回に見えたりもする。道路標識で「う回路」と書かれていると、うの字が妙に目立って、道案内より先に鵜やら芸名やらが浮かぶ。

もちろん、何十年も使われてきた表記なら、そのうち慣れるのかもしれない。実際、慣れてしまえばどうということはない。でも「ルールだから」で終わらせるには、読みやすさとの逆転が起きすぎている。

漢字を使うのが難しいなら、ふりがなを付ける。ふりがなが難しいなら、別の言い方をする。「う回」より「遠回り」のほうが、少なくとも意味はすぐ伝わる。常用漢字という基準を持つこと自体は必要なのだろうけど、その基準のせいで読者が一瞬立ち止まるなら、運用のほうを見直してもいいと思う。

迂回は読める。迂だけでも、たぶん読める人は多い。なのに、そこだけをひらがなにして「う回」と書かれると、単語としての姿が崩れる。分かりやすくするための表記が、分かりにくさを生んでいる。この違和感だけは、何度見ても消えない。