最近、表現の自由について考えていて、どうして「表現の自由を弾圧する自由」から逃げるのか分からなくて、勢いでタイトルのようなことを書いた。特定の作品や表現に対して「嫌いだ」「認めたくない」「公開や商品化に反対だ」と言うことまで、表現の自由を侵害している扱いになるのは変ではないか、という疑問だった。

ただ、書き終わってから、自分でも言葉が強すぎたと思った。「弾圧」というのは、普通は権力や暴力で相手の活動を無理に抑え込むことだ。誰かが作品を批判したり、不買を呼びかけたり、見たくないと意思表示したりすることまで、全部弾圧と呼ぶのは雑だった。批判する自由も、批判を無視する自由も、嫌いだと言う自由もある。反対意見が出たからといって、すぐに口を塞がれたことにはならない。

一方で、民間なら何をしても権力ではない、と片づけるのも違う気がする。大勢で一人を追い込み、仕事や居場所を奪い、議論する機会そのものをなくすようなことが起きれば、形式的に公権力でなくても、実際にはかなり強い圧力になる。講演会や上映会が脅迫で中止になる場合と、単に主催者が批判を受けて内容を見直す場合は、同じではない。どこからが規制で、どこまでが言論なのかは、具体的に見ないと判断できない。

コメントで何度も「寛容のパラドックス」と言われた。自由を守るために、自由を壊そうとする行為には限界を設ける必要がある、という話だ。たしかに、無制限に寛容なら、最後には不寛容な側に社会を乗っ取られるかもしれない。でも、その理屈で気に入らないものを全部「反自由」と呼び始めたら、今度は規制する側が独裁者になる。誰がどんな権限で、どんな手続きによって制限するのかを考えないといけない。

表現の自由は、何を言っても誰にも反論されない権利ではない。むしろ反論されることまで含めて、表現を続ける自由なのだと思う。国家による検閲と、個人の批判や企業の判断を同じ言葉で呼ぶのもよくない。自分が「弾圧」と感じたことを、そのまま社会的な弾圧だと決めつけるのも危うい。

結局、タイトルからして間違っていたのかもしれない。「表現の自由を弾圧する自由」ではなく、「表現を批判し、拒否し、規制を求める表現の自由」と書けば、少しは話が通じたはずだ。既に何度も議論されてきた問題なのも分かった。知らないまま新しい発見をした気になっていたのは恥ずかしい。それでも、誰かを黙らせることと、反対意見を述べることは違う。その線引きを雑にしないことだけは、これからも考えていたい。