プレジデントオンラインの記事タイトルを眺めていて、ふと「そりゃ○○だわ」という形が多すぎることに気づいた。

最初は気のせいだと思った。ネット記事のタイトルなんて、どこも似たようなものだ。「知らないと損」「実は危険」「たった一つの理由」「衝撃の末路」あたりの言葉は、いろいろな媒体で見かける。だから、プレジデントだけが特別に変なわけではない、と流していた。

しかし、ある日いくつかタイトルを続けて見たところ、やたらと「そりゃ」が目に入った。

そりゃ仕事ができる人は出世するわ。 そりゃ優秀な社員は逃げ出すわ。 そりゃ親が怒るわ。 そりゃ本能寺を襲いたくなるわ。

という具合である。もちろん実際の文言はそれぞれ違うのだが、見出しの構造としては、何かの事情を示したあとに「そりゃ○○だわ」と結論を先に置くものが繰り返されている。

そこで、プレジデントのサイト内検索で「そりゃ」「こりゃ」を調べ、表示されたタイトルを人力で拾ってみた。検索結果を全部機械的に数えたわけではなく、構文に当てはまりそうなものを目で見て選んだだけなので、厳密な統計ではない。媒体の全記事を網羅した調査でもない。単なる暇つぶしである。

それでも、拾っていくと多い。月に一度あるかどうか、という印象ではない。一定期間の見出しを並べると、数本に一度は「そりゃ」が出てくるような感じになる。途中から、タイトルを読むというより「次は何がそりゃになるのか」を当てるゲームになっていた。

しかも、完全に同じ型だけではない。「そりゃ○○だわ」の前後に説明がつくもの、「そりゃ○○なわけだ」という変形、「そりゃ、○○したくなるわ」と感情に寄せたもの、「そりゃお○○だわ」のように読点やかぎ括弧で読みやすさを調整したものもある。たまに「こりゃ」や別の口語表現が混ざるので、一覧にすると妙にお祭り感が出る。

なぜこの構文が使われるのか。

たぶん、一番大きいのは、納得感を先に作れることだと思う。「なぜ優秀社員が辞めるのか?」というタイトルは、これから理由を読む形式になっている。まだ読者は理由を知らない。疑問を提示され、答えを探しに行く。

一方で、「そりゃ優秀社員が辞めるわ」というタイトルは、すでに答えを見つけた人の感想のように見える。読者は記事を読む前なのに、何かを知った後の立場に置かれる。本文にどんな事情が書かれているのか知らなくても、「なるほど、そういう理由なら辞めるよね」と納得する準備ができてしまう。

つまり、これは理由を売っているというより、納得を売っている。もっと言えば、読めば納得できる答えがあるという期待を売っている。

「なぜ」は謎を残す言葉だが、「そりゃ」は謎が解けた後に出てくる言葉である。読者の心理としては、問いを解くより、誰かと一緒に「そりゃそうだよね」と頷くほうが負担が少ない。クリックする前から記事の結論に同意した気分になれるので、見出しとして強い。

さらに口語なのも強い。「理由」「背景」「要因」よりも、人が実際にしゃべっている感じがある。硬いビジネス記事の見出しのなかに「そりゃ○○だわ」と置くと、急に隣の人が話しかけてきたような親密さが出る。親密さというより、気安さと言ったほうがいいかもしれない。

SNSやニュースアプリでは、最初の数文字しか読まれないことも多い。タイトルの冒頭に「そりゃ」を置き、その後ろに刺激のある対象を続ければ、スクロール中でも目に入りやすい。疑問形ではなく断定調なので、内容を知らない人にも「何か決定的な理由があるらしい」と感じさせる。

もちろん、毎回それが機能するとは限らない。あまりに多用されると、今度は「またそりゃか」と思われる。タイトルの文字数を使っているのに、冒頭に入る情報は「そりゃ」という感想だけになる。検索結果で似た見出しが並べば、どの記事が何について書かれているのか分かりにくくなる。過去の記事と見分けがつかず、前に読んだものと同じだと思われる可能性もある。

それでも使われ続けるのは、たぶん数字が出るからだ。一度当たった型は、別の型を試すより安全である。編集会議で「この言い回しは飽きられていませんか」と話し合うより、「前にこの型で読まれた」という実績のほうが強い。そうして勝ちパターンがテンプレートになり、テンプレートが編集部の共有財産になり、最終的には記事の内容より先に見出しの型が決まる。

そこには、読者のことをよく分かっているという面もある。読者が日常的に「そりゃそうだろ」と言える場所を求めているなら、その気分に合わせた見出しは合理的だ。自分は安全な場所にいて、世の中の誰かや何かを評価し、最後に「そりゃ○○だわ」と言う。これは短時間で得られる小さな優越感であり、共感であり、会話のきっかけでもある。

ただ、その気分に合わせすぎると、記事全体が「読者の代わりに感想を言う装置」になってしまう。読む前から納得させ、読む途中で驚かせ、最後にまた納得させる。実際には何が新しく分かったのか曖昧でも、見出しと本文の調子が合っていれば、読者は何となく読了した気になる。

「そりゃ」が情報ではなく、感情の記号になっているということだ。

そして、こういう構文を集めていると、こちらまで影響される。「そりゃ多用されるわ」と書きたくなる。多用されている理由を調べているのに、調査結果を見た瞬間、同じ構文でまとめたくなる。タイトルに引っ張られ、コメント欄にも「そりゃ」「そらそうよ」「こりゃ」といった反応が並ぶ。見出しの型が記事の外側にまで感染している。

これは少し面白い。記事が読者に納得感を与えるだけでなく、読者の発言まで誘導しているからだ。みんなが同じ言葉で反応することで、構文の効果が実演される。そりゃブックマークコメントも釣られるわ、というわけである。

とはいえ、媒体の価値はタイトルだけで決まるものではない。どれほど見出しが強くても、中身が薄ければ、そのうち読者は覚える。タイトルを見ただけで「どうせいつものやつ」と判断され、ミュートされ、ページを開かれなくなる。短期的なPVを取るための型が、長期的にはブランドを削ることもある。

一度使った言い回しを繰り返すのは楽だし、数字が取れるならやめにくい。しかし、楽な型を使い続けた結果、「タイトルを見る価値がない」という合図になってしまったら、本末転倒だ。

結局、「そりゃ○○だわ」が強い理由は、答えを提示しているように見せながら、読者自身に納得した気分を与えられるからだと思う。疑問よりも結論、情報よりも共感、検証よりも頷き。そういうものを短い口語で一気に届けられる。

だから多用される。そりゃプレジデントも使うわ。

……と、最後まで調べてみた結果、こちらも見事に「そりゃ記事」の型に落ちてしまった。多用される理由を考察した本文が、タイトルの構文を再利用して納得感を演出している。根拠はそれなりにあるような、ないような。読後感も、腑に落ちたような、ただ「そりゃそうだ」と言っただけのような。

そりゃ、こういう記事が増えるわけだわ。