昨日、かなり力を入れて文章を書いた。書き終わったときには、これはさすがに長いなと思ったけれど、長いなりに必要な話だとも思っていた。ところが公開してみたら、表の途中から先がきれいに消えている。文字数の制限に引っかかったらしい。
そんな制限があるなら先に言ってよ~、という気持ちである。投稿画面では特に大きく注意されるわけでもなく、送信できたので全部載ったものだと思っていた。あとから見返して、文章の流れがおかしい。結論に向かっていたはずなのに、突然、表の説明が終わっている。途中で誰かがページを閉じたみたいになっている。
本当は、いくつかのタイトルを並べて、そこに共通する言い回しを比べるつもりだった。表にしたのは、文章だけで説明すると余計に長くなりそうだったからだ。タイトル、媒体、見出しに使われていた言葉、読んだときに受ける印象、という具合に整理していた。見比べれば、単なる好みの問題ではなく、ある種の型があることが分かると思った。
その型というのが、「なぜAはBなのか」という形である。もちろん、疑問を提示するタイトル自体が悪いわけではない。読者が知りたいことを端的に示せるし、本文に答えがあると分かる。問題は、AがBであることを前提にしているように見せながら、実際にはそこがいちばん主張したい部分になっている場合だ。
「なぜこの方法は成功するのか」と書かれていたら、読者は、この方法が成功するという話はすでに共有されていると思う。ところが本文を読んでみると、成功した事例が少し紹介されているだけで、成功すること自体は全然自明ではない。タイトルの時点で、著者が「これは成功する方法なんです」と先に言ってしまっている。疑問形なのに、答えの方向は決まっている。
この違和感をどう書くかで、かなり迷った。単に「このタイトルは嫌いだ」と言うだけでは、個人の趣味で終わってしまう。タイトルが読者に何を約束しているのか、どんな気分で本文を開かせるのか、そこまで言葉にしたかった。
結論から言えば、こういうタイトルは答えそのものだけでなく、納得感まで売っている。読めば理由が分かる、理由が分かれば腑に落ちる、腑に落ちればタイトルの前提も受け入れられる。読者が最後に言うはずの「そりゃそうだ」を、最初からタイトルの中に置いているような感じがする。
「そりゃ」という言葉は、理由を聞いたあとの反応である。「そりゃそうだ」「そりゃ売れるわ」「そりゃ人気になるわ」。何かを説明されたあとに、聞き手が納得して返す言葉だ。それを見出しに持ってくると、本文を読む前から、読者の反応だけが用意されている。あなたも読み終わったら、きっとそう思うでしょう、という誘導がある。
だから、「なぜAはBなのか」構文が答えを売っているとすれば、「そりゃ」は答えと納得感を売っている。もっと言えば、読めば納得できる答えがちゃんとあるという期待を売っている。実際に答えが鮮やかならいいのだが、そうでない場合は、納得することまで読者に求められているようで疲れる。
この話をしていると、言葉尻に敏感すぎると言われそうだ。たしかに、タイトルの一語だけで記事全体を判断するのは乱暴である。本文が面白ければ、タイトルの癖など気にならないこともある。読者を呼び込むための見出しなのだから、多少の演出は必要だ。
ただ、見出しは本文より先に読まれる。そこに「そりゃ」「だわ…」「わけだ…」のような、読後の感想を先回りする語尾が付くと、どうしても作為が見える。特に、強い断定を避けているようでいて、実際には結論へ連れていくタイプの文章と組み合わさると、鼻につく。
表には、そういう言葉が使われていたタイトルをいくつか載せた。媒体ごとの違いも見たかったし、同じ型が別の場所でどう変わるのかも比べたかった。けれど、表を全部載せると本文の文字数をかなり食う。泣く泣く省略した部分もある。省略したというより、勝手に省略された。
しかも、あとから見たら、いちばん説明したかった例の直前で切れていた。そこまで読めば「この言い回しは特定の媒体に多いのでは」という話につながるはずだったのに、そこだけ消えたので、単に私が語尾に文句をつけている人みたいになっている。いや、語尾にも文句はあるのだが、そこだけが本題ではない。
それにしても、こういう表を作り始めると止まらない。最初は数個の例を見比べるだけのつもりが、似たタイトルを探し、さらに別の媒体を見て、昔からあったのか、最近増えたのかを考え始める。気がつけば、読むために集めていた記事より、タイトルを分類するために集めた記事のほうが多くなっている。
もちろん、これも情報を集めてしまう理由のひとつなのだろう。人は新しい情報が欲しいというより、ばらばらに見えるものを並べて、納得したいのかもしれない。なぜこのタイトルが嫌なのかを考えているうちに、なぜ人は説明を読むのか、という話にまで広がった。
納得したいから読む。答えが欲しいから読む。そして、答えを受け取ったあとに「そりゃそうだ」と言いたいから読む。そう考えると、「そりゃ」はかなり便利な言葉だ。短いのに、答え、同意、安心、少しの優越感までまとめて含ませられる。
ただ、便利な言葉ほど使われると目立つ。何度も見かけると、読者の感想を先に決められている感じが強くなる。納得するかどうかは本文を読んだこちらが決めたい。タイトルに先に答えを置かれると、読む前から相づちを要求されているようで、少し身構えてしまう。
というようなことを、もっと具体例を出しながら書いていた。表の後ろには、言葉の流行や媒体の傾向についても少し触れていた。昔から似た表現はあったし、特定の人や媒体だけの問題でもない。だから、誰かを責めたいというより、見出しが作る読者との距離について考えたかった。
でも、文字制限で消えた。言ってよ~。せめて投稿前に、ここから先は掲載されませんと教えてほしい。長すぎる私が悪いと言われれば、その通りなのだけれど、途中まで受け付けておいて、いちばん大事なところを無言で削るのはあんまりではないか。
追記。短くまとめ直そうとして、結局また長くなった。これでは次も削られるかもしれない。とはいえ、ここまで読んでしまった人なら分かると思う。なぜこんなに長くなったのか。
そりゃ、納得したかったからだわ。