最近、はてなブックマークの政治記事を眺めていて、コメント欄というより陣取り合戦を見ているような気分になることが増えた。

記事の内容を読んで、それについて自分の考えを書く。たぶん本来はそれだけのサービスなのだと思う。ところが実際には、記事そのものよりも、誰が書いたか、どの陣営に有利な話か、いつもの人が何と言っているかの方が先に見られている。

「またこの界隈か」「支持者はこれどうすんの」「答え合わせ」「いつもの」。このあたりの短い言葉は、説明の代わりに使われる。仲間には通じるし、敵には通じなくても構わない。むしろ通じない方が、相手を一段強い形に作り替えて殴る余地が生まれる。

誰かの発言を、実際に言ったことより少し過激に言い換える。二つしか選択肢がないように並べる。相手が一度でも間違えたことを、何を言っても信用できない理由にする。こちら側の同じような失敗は、事情があった、文脈が違う、そこを問題にするのは本質ではない、と処理する。反対側の人間については、たった一つの発言から思想も人格も全部決めてしまう。

こういうことを論理的欠陥と呼ぶのは、少し大げさかもしれない。そもそも、百文字程度のコメントを一度書いて終わる場所で、相手を説得するための議論が成立すると思う方が無理がある。はてなブックマークは討論会ではなく、各自が記事に付箋を貼るサービスだ。付箋が他人にも見えるから、そこに反応が集まるだけである。

ブックマークは本来、自分のためのメモでもある。後から読み返したときに、その時点で何を考えていたかが分かる。十年ほど前のコメントを読み返すと、自分の考えが変わったことに気づくこともある。これは悪くない。今とは違う自分の判断を残しておく意味はある。

問題は、その私的なメモがランキングになり、星の数で並び替えられ、同じ話題に関心を持つ人たちの目に一斉に入ることだ。星は正しさを測っていない。記事を見に来た人にとって、どれだけ気持ちよく刺さったか、どれだけ短く言い切っていて押しやすいか、せいぜいその程度の指標だろう。

それでも星が集まると、本人も周囲も、何かに勝ったような気になる。いつもの仲間が星を付け、さらに同じ調子のコメントを書く。結果として、言葉はどんどん強くなり、内容はどんどん薄くなる。相手の名前や属性を確認してから、上げるか下げるかを決める。誰が言ったかより何を言ったかが大事だと言いながら、実際には誰が言ったかで読解の方向を変えている。

ただ、これは特定の側だけの問題ではない。自称中道や中立や普通の人も、しばしば自分を無色透明だと思っているだけで、別の方向に強く偏っている。左も右も、自分の側の言葉には細かな事情を読み込み、相手の側には一貫した悪意を読み込む。是々非々を掲げる人が必ずしも公平とは限らないし、党派性がある人が必ずしも間違っているわけでもない。

大事なのは、党派に属しているかどうかを当てることではなく、その場で何を言っているかを見ることだと思う。普段は思想が真逆の人でも、知らなかった事実を示してくれたコメントには星を付ければいい。逆に、味方の発言でも事実と違うなら指摘すればいい。味方の間違いを見つける能力は、敵の間違いを見つける能力より地味だが、たぶん重要である。

しかし、実際にそれをやると、味方からも敵扱いされる。「中立ぶるな」「結局どっち側だ」「相手を擁護するのか」と言われる。両方に同じことを言えば、両方から裏切り者になる。だから党派に従う方が楽なのだろう。複雑な状況を毎回自分で判断しなくて済むし、身内から嫌われずに済む。定型句を使えば数も稼げるし、キャラクターも覚えてもらえる。

人間の認知能力には限界がある。社会の情報量は、個人が処理できる量をとうに超えている。毎回すべてを調べ、すべての前提を確認し、相手の立場を理解したうえで判断するのは疲れる。敵味方の分類は、世界を簡単にする。その簡単さが、現実を壊すことがあるとしても。

まして政治の話では、前提も目指すゴールも共有されていない。何を正義と呼ぶか、何を事実と認めるか、どの損失を許容するかが違う。そこを揃えないまま、政策の一部だけを切り出して勝ち負けを決めようとする。議論が空中戦になるのは当然だ。

だから、はてなブックマークで議論ができないこと自体は、必ずしも欠陥ではない。ユーザー間の議論を推奨していない設計なら、そこに討論の成果を求める方が間違っている。言いっぱなしで終わるから、ほかのSNSより粘着が薄いという面もある。レスバができないことが、かえって心安らかに見られる理由になっている。

もちろん、言いっぱなしにも責任はある。第三者が読む以上、根拠のない断定や人格攻撃は誰かを傷つける。特定の人を名指しで追い回したり、過去の発言を掘って敵認定したりするのは、独り言の範囲を超えている。対話の仕組みがない場所で、対話しているつもりになって相手を追い詰めるのは危険だ。

ならばどうすればいいのか。まず、コメントを書く前に記事を読む。次に、相手を一番弱い形にしてから殴らない。分からないことは分からないと書く。事実と評価を分ける。自分の側にも同じ基準を適用する。できれば、星の数を正しさのポイントだと思わない。難しいが、全部を直そうとせず、気になるアカウントをミュートするのも十分に有効だ。

党派戦争を完全になくすことはできない。人は敵を作るし、仲間と一体化することに快感を覚える。政治の話がスポーツ観戦や飲み屋の野球談義に似てしまうのも、ある程度は人間の性質なのだろう。問題は、遊びのつもりで投げた石が、画面の向こうの人間に当たることを忘れることだ。

ブコメは石の裏で思い思いに動く虫のようなものだ、と考えれば、少し距離を取れる。虫同士が話していても、世界の運命が決まるわけではない。自分もその虫の一匹であることを忘れなければいい。

それでも、たまに陣営を越えて「これは知らなかった」「その指摘は分かる」と思えるコメントがある。そういう一言が見つかるから、まだ見に来てしまう。相手の意見を百八十度変えさせる必要はない。ほんの少し視野が広がるだけでも、言葉を読んだ意味はある。

議論ではなくても、独り言の集積から考える材料が生まれることはある。スターが正しさを保証しなくても、コメントが全部同じになる必要はない。敵か味方かを確かめる前に、書かれている一文を読む。その一手間だけで、戦争に見えていたものが、単なる雑多なメモの一覧に戻るかもしれない。戻らないかもしれない。少なくとも、毎回敵を作ってから読むよりは、少しだけ頭と心にいい。