お金に種類が無いのって原始人社会過ぎない?

汗水流して働いて得た一万円と、投資で増やした一万円と、詐欺師が人をだまして得た一万円が、買い物をするときには全部同じ一万円として扱われる。これ、よく考えると変じゃないか。

もちろん、詐欺や窃盗が許されると言いたいわけではない。犯罪なら罰せられるべきだし、被害者には返金されるべきだ。ただ、悪いことをして得たお金も、いったん誰かの財布や口座を経由すれば、普通のお金として流通する。犯罪者の一万円だけ、レジで「これは汚いお金です」と表示されることはない。

だったら、お金そのものに入手経路や労働の内容を記録して、価値に差をつければいい。介護や清掃のように社会に必要な仕事で得たお金は少し高く使えるようにする。人をだまして得たお金は価値を下げる。給付金には期限をつけたり、食料や家賃にしか使えない券を配ったりする。技術的には、昔よりできそうな気がする。

まあ、誰が「この仕事は何点」「この金は何色」と決めるのかという問題はある。判定する役所や仕組みに権力が集中するし、詐欺師は詐欺で得たお金を、働いて得た人から受け取ればよい。結局、見分けるための監視と手続きが増えて、普通の人が使いにくくなるだけかもしれない。

お金が便利なのは、由来をいったん忘れて、交換の尺度を一つにできるからだ。盗んだパンも買ったパンもカロリーは同じで、罰はパンの効能を変えるためではなく、盗む行為を抑えるためにある。犯罪収益を凍結したり、税や罰金で調整したりする今の仕組みは、そういう意味では現実的だ。

たぶん自分が言いたかったのは、お金の種類ではなく、労働の評価が雑すぎるということなんだと思う。長時間働いた人が偉いわけではないし、苦労した量だけ価値が増えるわけでもない。それでも、社会を支える仕事より、他人の不安を煽る仕事や資産を持っているだけの人の方が儲かる状況には納得しにくい。

一円は一円だからこそ、誰にでも使える。そのドライさが貨幣の発明のすごさであり、同時に、何をして稼いだかを見えなくする冷たさでもある。お金を色分けするより、犯罪を防ぎ、必要な労働に適正な対価を払う仕組みを考える方が先なのだろう。とはいえ、汗水の量ではなく、社会への貢献をどう測るのかは、まだ全然わからない。