あの文章を読んで、まず思ったのは「逃げちゃダメだよ、レースクイーンおじさん」である。

いや、逃げてもいい。インターネットから離れるのは大事だし、嫌なものを見ない権利もある。ただし、逃げる前に、せめて自分が何を書いたのかくらいは読み返してほしい。女のふりをして、女の人生について語って、女ならこう思うはず、こういうことで傷つくはず、と並べた文章を、女が読んだらどう感じるか。そこを一度も考えずに「これはリアルな中年女性です」と提出してくる、その度胸だけはすごい。

すごいけど、薄い。浅いね〜。本当にものを知らん人が書いてる文章だ。

三十代後半の女オタクが、レースクイーンをしていた過去を持ち、男にモテなくなったことを嘆き、友達がいなくて、親の世話をどうするか悩み、最後は生活の不安に沈んでいく。そういう筋書き自体は、別にあってもいい。創作なら創作で、面白ければ読む。けれど、そこに置かれた小道具が、どれも「男の人が考えた中年女性」の福袋なのだ。

レースクイーン。業界の裏事情。中年になって価値がなくなる女。女同士の嫌な争い。親には頼れない、子供にも頼れない、でも孤独に死ぬのは怖い。そこへオタク趣味を少々。これでどうだ、と出されても、こっちは「どうしてそうなるの」としか言えない。

女オタクが年を取って最初に悩むことが、友達ができないこと? モテなくなったこと? いや、もちろん人それぞれだけど、そこを主題にして熱弁されると、書いた人の見たい女しか見ていないのが丸わかりである。

三十代、四十代のオタク女が集まって話すことなんて、健康診断、持病、親の通院、介護、実家の片付け、墓、相続、仕事の休み、推しのライブに行く体力、そして更年期だ。美容や結婚の話をしないわけではない。ただ、話題の中心がそこではなくなるだけである。推しの新刊が出た、イベントの当落がどうだった、という話をした五分後には、「ところで血圧は」となる。

親が元気なうちは、子供の世話にはならない、迷惑をかけない、と言っていたのに、いざ倒れるとそんな言葉は簡単に消える。本人が忘れることもあるし、周りが忘れさせることもある。これが本物の老いである。創作上の便利な絶望ではなく、冷蔵庫の中身や薬の飲み方や役所の書類にくっついてくる、ものすごく生活臭い現実だ。

両親がいなくなった後の実家をどうするか、という話も、オタク女にはかなり早い段階からちらつく。親の家には、自分が子供の頃に買ってもらったものや、もう誰も使わない食器や、なぜか捨てられない古い写真が詰まっている。自分の同人誌やグッズだって、死んだら誰かが処分する。そんなことを考えながら、イベントで新刊を買う。感情の置き場所が、若い頃とは違う。

私の友人は、入院とリハビリで休職したとき、保険が降りるからという理由で、ゲームのキャラクターをレベル一二〇まで育てていた。最高だった。病室で何をしているのかと思ったら、近藤勇を延々と強くしている。そういうのがオタクの人生である。華やかな業界裏話ではない。点滴をつけたまま周回し、退院したら本屋に寄り、帰宅してから親のケアマネージャーに電話する。そんな日々だ。

最初に好きになった声優は鈴置洋孝だった。これは年齢を証明するために言っているのではなく、好きだったから言っている。声が好きで、演じている人が好きで、作品を繰り返し見た。今でも声を聞けば、当時の部屋の匂いや、買ったばかりのビデオテープの重さまで思い出す。

最推しは瓦礫に埋もれたまま、四半世紀が経ちました。

この一文で誰のことか分かる人は分かる。分からない人は分からなくていい。推しというのは、全員に説明して理解してもらうものではない。自分の中でずっと生きているものだ。昔の作品を好きだと言うと、すぐに「古い」「今の若い人は知らない」と言われるけれど、好きなものが古くなることはない。自分の時間の中では、いつだって新しい。

だから、令和版の作品を知らないからといって、昔のファンを偽物扱いするのも違うし、逆に昔の作品を知っているからといって、若いファンを浅いと決めつけるのも違う。オタクにもオタクの数だけ種類がある。白にも二百種類あることは刀ミュのペンライトを見ても明らかだが、オタクにも同じくらい種類がある。

私は幽遊白書もスラムダンクも封神演義も通っている。銀魂も、黒子のバスケも、リボーンも、うたプリも知っている。コバルト文庫を読み、テキストサイトを巡回し、個人サイトの掲示板で感想を書き、イベント前日にコピー本を折った。古の同人誌のフリートークには、作品の話よりも、原稿が終わらない、肩が痛い、親に何と言って出かけるか、という話が多かった。手書きのほうが読みやすいような、変な改行と勢いのある長文だった。

そういう文章には、内容が正しいかどうかとは別のところに、書いた人の生活が染みている。何を食べて、どこで笑って、誰に怒って、どんな本を買ってきたのかが、言葉の選び方に出る。脳直タイピングに見えて、実際には何十年分もの積み重ねがある。

今回の文章にも、そういうものがあった。長い。とにかく長い。改行も不安定で、読みにくい。だが、読みにくさまで含めて、誰かが本当に腹を立て、本当に笑い、本当に「それは違う」と言い続けている感じがした。

草超えて森。大地。自然。地球。宇宙。

くだらないけれど、こういうくだらなさがいい。整った文章ではなく、感情が先に走って、後から言葉が追いかけてくる。生成された文章には、遠赤外線も炭火もいらない。せいぜいそれらしい単語を並べて、読者が勝手に「リアル」と呼んでくれるのを待つ。でも、こっちの文章は直火だった。ウェルダンである。

もちろん、女オタクなら全員こう書くわけではない。私はこういう悪口芸が苦手な人も知っているし、長文を読むだけで疲れる人もいる。女の集団を一枚岩にして、「これが本物」と言い切るのもまた雑だ。レースクイーンおじさんの雑さを笑いながら、自分たちまで別の雑な類型を作ってしまったら意味がない。

それでも、あの文章が出てきたことで、見えなかったものが見えた人は多かったのだと思う。女の立場を借りて語れば、女について何でも分かったことになるわけではない。年齢や性別の記号を置けば、人生の解像度が上がるわけでもない。むしろ、知っているつもりで書いた部分ほど、知らなさが透ける。

言及された文章を読んで、これは本当に女の人が書いたのかもしれない、と信じた人がいるのも分かる。信じたい人にとっては、元レースクイーンの三十七歳オタク女性が転落していく話は、たいへん都合のいい「リアル」だったのだろう。けれど、作り話と現実の区別がつかない人は普通にいる。面白いから本当、感情が動いたから事実、ということではない。

そして、あれを女が書いたと思って怒り狂い、逃げて、また別の場所で女の悪口を始める人たち。あなたたちはもう、レースクイーンおじさんというより、レースクイーンおじさんの文章を読んで自分からそこへ帰っていく人である。

こっちも巣に帰るから、お前さんもお帰り。

ただし、帰る前に一つだけ言っておく。女オタクは、あなたが思っているよりずっと長く生きている。好きな作品も、嫌いなものも、病院の予約も、親の介護も、推しの誕生日も、全部抱えたまま生きている。若さを失って価値がなくなるのではない。価値がなくなるという物語を、何度も押しつけられることに飽きているだけだ。

逃げちゃダメだよ、レースクイーンおじさん。

いや、やっぱり逃げてもいい。次に書くなら、せめて女の人生を借り物の小道具だけで作らないこと。薄い、浅いと言われたくないなら、まず自分の生活を見たほうがいい。親のこと、体のこと、部屋の片付け、誰にも見せない推しのこと。そこから書けば、少なくとも、誰かの人生を覗き込んだふりをする文章にはならない。

ではこの後もサービス、サービスぅ!と言って終わるような年齢ではないので、今日はここまで。明日は健康診断の結果を聞きに行く。帰りに本屋へ寄って、古い推しの本を探す。見つからなくても、家に帰れば、瓦礫の下からずっとこちらを見ている推しがいる。

それで十分である。