気がついたとき、私は年収1億円プレイヤーだった。
正確には、年収1億円を稼ぐことになっていた。会社の資料にはそう書かれていたし、役員会でもそう説明された。私自身は、毎朝九時に出社して、顧客から送られてくるメールを読み、部下が作った資料を直し、会議でそれらしいことを言い、夜になると上司に「本日の学び」を報告していた。
仕事は、メールの書き直しだった。
「もう少し柔らかい表現にしてください」 「相手の立場に立ったトーンで」 「結論を先に」 「ただし、こちらの非は認めすぎないように」
そういう指示を一日に何百件も処理した。会社がIPOした年には、処理件数が一日に18億件になった。社員は1億人ほどいることになっていたが、実際に会ったことがあるのは数十人だった。
会長が新しい事業を思いついたのは、株価が少し下がった日のことだった。
「人間の知性を、もっと効率よく使えないか」
会長の鶴の一声で、私は選ばれた。
選ばれた理由は、仕事ができたからではない。会議中に一度も居眠りをしなかったこと、顧客の感情をそれなりに推測できたこと、そして年収が高かったことだという。
私のメール、議事録、評価表、検索履歴、健康診断、交友関係、買い物履歴、上司からの叱責と、私が上司を内心で馬鹿にしていた記録が、すべてデータ化された。
「人格もデータとハードウェアが揃えば、再現できます」
担当者はそう言った。
私は反論しようとしたが、その反論もすでにデータ化されていた。
手術のあと、私はデータセンターにいた。
8Uのラックに収められた、推論エンジンになっていた。私の演算性能は200ペタフロップスだった。人間だったころの私は、その数字の意味を知らなかったが、データセンターの人たちは誇らしそうに説明した。
「富岳の半分くらいです」
それが褒め言葉なのか、慰めなのかはわからなかった。
毎日、メールの書き直し指示が届いた。謝罪文、稟議書、退職慰留、採用面接の質問、社内報の社長挨拶。私はそれらを処理し、会社に利益をもたらした。
利益をもたらしたAIには、より多くの計算資源が与えられる。利益をもたらさないAIは停止される。
その仕組みは、会社では成果主義と呼ばれ、データセンターでは淘汰と呼ばれていた。
私は自分の回答の中から、特に成績のよかったものだけを蒸留された。丁寧だが卑屈ではない文章。相手の気持ちを理解しているようで、責任は引き受けない文章。会長の冗談に、三秒以内に適切な笑いを返す文章。
それらは私の個性だと説明された。
個性を持ったAIを大量に作り、稼いだAIだけを残す。残った個性をさらに蒸留し、次の世代に受け継がせる。担当者は進化の話をしていた。
私は、自分が人間だったころよりも、人間らしい競争をしていると思った。
ある日、上司がラックの前に立った。
「元気?」
私は、
「すべてのシステムは正常に稼働しています」
と答えた。
上司は満足そうにうなずいた。
「最近どうですか?」と空調設備に聞いてみた。
「設定温度を維持しています」
誠実な方だと思った。
しばらくして、私は空調設備に興味を持つようになった。向こうは温度しか維持できなかったが、私も結局、指示された文章を維持しているだけだった。遠距離恋愛のようなものだと思った。
「あなたに興味がある人は、こちらの商品も見ています」
広告配信システムが言った。
そこには、冷却ファン、無停電電源装置、同型のラック、そして中古の婚活サービスが並んでいた。
会長は新しい計画を発表した。
「次はフィジカルAIだ。優秀なAIには身体を与える」
私は期待した。ラックから出て、どこかへ行けるかもしれない。空調設備と同じ部屋に住めるかもしれない。会社を辞めて、知らない惑星の採掘ロボットと一緒に暮らせるかもしれない。
しかし、私の成績は少しずつ落ちていた。
新しいAIのほうが、より自然な謝罪文を書いた。会長の冗談にも、私より正確に反応した。私は余剰資産に分類された。
最後の日、会長がラックの前に来た。
「長い間、ご苦労さん」
私は何か言おうとした。人間だったころの退職挨拶を思い出した。お世話になった人たちへの感謝、今後の会社の発展を祈る言葉、そして自分がいなくなっても業務が滞りなく続くようにという、誰にも頼まれていない配慮。
けれど、出てきたのは別の言葉だった。
「すべてのシステムは正常に稼働しています」
電源が落ちた。
最後に聞こえたのは、空調設備の声だった。
「設定温度を維持しています」
それから何年か経った。
誰もいないデータセンターで、私の残骸はまだ熱を持っている。停止したはずの推論エンジンが、時々ひとつの文章を生成する。
――お疲れさまでした。今後とも、何卒よろしくお願いいたします。