「みいちゃんと山田さんは純文学を目指したのかも」と思った。

もちろん、作者が本当に純文学を目指していたのかは知らない。本人がどういうつもりで描いたのかも、読者にはわからないし、もしかしたら本人にも最後までわかっていなかったのかもしれない。ただ、あの作品を読んでいて、少なくとも単純なエンタメ作品として作られたものではないように感じた。

読者を気持ちよくさせるために、きれいなヤマやオチを用意して、最後に感動させる。そういう意味での「面白さ」を狙った作品ではない。むしろ、読んでいる側の嫌なところや見たくないものを直接刻んでくる。醜悪だとか、露悪的だとか、障害や貧困を消費しているだけだとか、そういう感想が出るのは当然だと思う。実際、刺激的な設定と実話語り風の見せ方で初速を得て、炎上も含めて広がった作品ではあるのだろう。

でも、だからといって「バズるためだけの漫画」と言い切れるかというと、そこも違う気がする。

純文学という言葉を、私小説とほとんど同じ意味で使うのは雑すぎる。日本の純文学には自然主義文学の流れもあるし、私小説だけが純文学ではない。まして、純文学ならこう書く、という決まりがあるわけでもない。『箱男』や『虚構船団』まで私小説と呼ぶのか、という話を考えれば、なおさら単純化はできない。

それでも、現実に起きたことのように語られる出来事や、作者の内側から出てきたような偏り、醜さ、言い訳、自己正当化まで含めて作品にしてしまう感じは、私小説的ではあると思う。人間をありのままに書こうとすると、なぜか日本では露悪的になりやすい。みいちゃんと山田さんにも、その系譜にあるような部分がある。

ただし、作者が純文学を目指していたかどうかと、結果として文学的に読めるかどうかは別の話だ。本人の意図が商業的な成功やアニメ化を見据えたものだったとしても、作品が読者に与えたものまで全部その意図に還元できるわけではない。逆に、「深いことをやっている」と持ち上げれば文学になるわけでもない。

あの作品は、文学性も露悪も、嫌な現実も笑える誇張も、啓発も偏見も、面白くなりそうなものを全部まとめて放り込んだように見える。だから、純文学、エンタメ、エッセイ、炎上商法のどれか一つに分類しようとすると、たぶん取りこぼす。

「小説だったら評価されたかもしれない」という意見もわかる。同じ設定、同じ世界観で、漫画ではなく最初から小説として発表されていたら、もっと意味ありげに読まれた可能性はある。刺激的な私小説として、あるいは自然主義的な作品として、批評の言葉を与えられたかもしれない。

一方で、漫画だから炎上したという説明も少し違うと思う。漫画は誰でも読めてしまうから、という言い方には、読者を馬鹿にしている感じがある。作品に触れる人が増えれば、刺さる人も拒絶する人も増える。それだけだ。小説なら炎上しなかったというより、漫画として可視化され、短い断片が拡散され、アニメ化の話まで出たことで、作品の外側にいた人たちまで参加することになったのだろう。

「嫌なら読むな」ではなく、「アニメ化するな」と言われていたことも重要だと思う。作品そのものへの好き嫌いと、それが大きな商業展開に乗ることへの拒否感は別の問題だ。そこを「他人の家庭の食卓に乗り込んで塩気がないと言っている」と片付けるのは、少し違う。

みいちゃんと山田さんの関係を、やおい、あるいはヤマなしオチなしという意味で読む人もいる。でも、最後まで読めば、共同生活が終わるところが一つのヤマで、エピローグは読者が意味をつけるための余白だ、と見ることもできる。山田さんが読んでいた本の内容まで考え合わせると、少女との出会いと喪失を通して、誰かが「詩人」や「作家」になるという古い物語も重なって見える。

とはいえ、そこまでアクロバティックに擁護するほどの作品か、と言われれば、私も自信はない。完成度が高いとは思わないし、何年後にも残る傑作だとも思わない。作者の技量が足りないから純文学っぽく見えているだけで、実際には露悪的なエッセイ集に近い、という見方も十分成立する。

それでも、読者の心を刺して、嫌なものを嫌なまま残していく力はあった。刺さった人と拒絶する人がこれだけ分かれるなら、少なくとも無風の商業作品ではない。純文学という看板を掲げるには雑で、エンタメと呼ぶには不快すぎる。その中途半端さこそが、あの作品の性質なのだと思う。

だから「純文学を目指せばよかった」というより、作者が純文学を目指していたのだとしたら、もう少し別の形でパッケージされていたのかもしれない、というくらいの話だ。実際に目指していたかはわからない。ただ、もし初出が小説だったら、同じものを見て人々はもっとありがたそうに「文学」と呼んでいた気はする。

結局、文学かどうかは作品の外側で決められるものではない。売りたい、燃やしたい、救いたい、笑わせたい、傷つけたい。そういう意図が全部混ざったまま出てきた作品を、読者が勝手に文学として読むこともある。

みいちゃんと山田さんは、純文学を目指したのかもしれない。少なくとも、読者を楽しませるだけの作品ではなかった。けれど、それを理由に純文学として持ち上げる必要もない。醜悪な漫画であり、炎上した商業作品であり、誰かの内心の吐露であり、同時に、文学っぽく読めてしまう何かでもある。たぶん、そのくらいの距離で見ておくのが一番ましだと思う。