赤ちゃんや幼児を連れて街を歩いている親を見ると、たまに「そこまでして出かけなくてもよくない?」と思うことがある。
特に、首も据わっていないような赤ん坊を真夏の観光地や混雑した電車に連れてきているのを見ると、赤ちゃんのためというより、親が行きたいから連れてきているだけではないか、と感じてしまう。大人の都合に付き合わされて、暑さや人混みや騒音にさらされる子どもがかわいそうだと思うこともある。
もちろん、病院や健診、買い物、保育園の送り迎えなど、どうしても外へ出なければならない用事があるのは分かる。家に赤ん坊を置いていくわけにはいかないし、祖父母が近くに住んでいていつでも預かってくれる家庭ばかりでもない。共働きで、夫婦だけで子どもを見ている家なら、連れて移動するしかない場面も多いだろう。
それでも、必要な外出と、親が遊びたいだけの外出は別ではないか。何でも「子どもがいるんだから仕方ない」で済ませて、周囲に無条件の我慢を求める風潮には違和感がある。子どもが泣くのは自然なことだし、泣き声が不快に聞こえる人がいるのも自然なことだ。親が一生懸命あやしているなら、こちらもある程度は我慢する。でも、子どもが走り回っても大声を出しても、親がスマホを見たまま放置しているような場面まで許容しろと言われると、さすがに納得できない。
昔は、少なくとも今ほど子連れでどこへでも行くのが当然、という雰囲気ではなかったように思う。子どもが小さいうちは家で過ごし、外食や旅行も少し大きくなってから、という家庭が多かった。ベビーカーを電車に乗せる人も今ほど目立たなかったし、混雑する場所には子どもを連れていかない、という遠慮もあったはずだ。
……と書いたら、「昔のほうが子どもは多かった」「お前が子どもだったから気づかなかっただけ」「昔も普通に子連れはいた」と言われるのだろう。たしかに、記憶はかなり曖昧だ。自分が子どもの頃に見ていたのは自宅と学校の周辺だけで、駅やデパートにどれほど子連れがいたかなんて正確には覚えていない。昔はベビーカーではなく、おんぶや抱っこで移動していたから、風景が違って見えただけかもしれない。
今のほうが子どもが多いというわけでもない。むしろ子どもの数は減っている。それなのに、都市部の駅や商業施設で子連れが目につくのは、車を持たない家庭が増えたこと、バリアフリー化でベビーカーを使いやすくなったこと、祖父母と同居する家庭が減ったこと、共働きで外出が休日に集中することなど、いろいろな事情が重なっているのだろう。
親だって、好き好んで毎日赤ちゃんを連れ回しているとは限らない。家で泣き声を聞き続けていると、親のほうが先に参ってしまう。少し外へ出て、空気を変えたり、必要なものを買ったり、誰かと話したりすることが、親子のためになる場合もある。親の心身を守ることは、結果的に子どもを守ることでもある。
だから、本当に言いたいのは「親は子どもを連れて一歩も外へ出るな」ではない。そんなことは無理だし、社会としても望ましくない。子どもは家の中だけで育つものではないし、公共の場所を使う経験も必要だ。赤ちゃんの泣き声を完全になくすこともできない。
ただ、場所と時間は選んでほしい。満員電車のラッシュ時、静かに鑑賞することが前提の場所、危険な暑さや寒さの中での長時間の移動などは、親子双方にとって避けられるなら避けたほうがいい。周囲にぶつかったり、服を汚したり、子どもが騒ぎ続けたりしたときには、短くてもいいから「すみません」と言ってほしい。それだけで受け取る側の気持ちはかなり違う。
一方で、赤ちゃんが泣いているだけで露骨に睨んだり、親子に出ていけと言ったりするのも違う。公共の場所は大人だけのものではない。自分にとって不快なものを全部排除していたら、次は車椅子の人、老人、体の大きな人、声の大きな人が対象になる。そういう社会には住みたくない。
結局、必要なのは「子連れを優先しろ」でも「子連れは家に閉じこもれ」でもなく、互いに少しずつ配慮することなのだと思う。子どもを連れて出歩く自由も、うるさいと感じる自由も、どちらも内心の問題としては残る。ただし、相手を追い出す権利まで自分の不快感から生まれるわけではない。
自分の記憶だけで「昔はこうだった」と断言したのは、たぶん間違っていた。昔の社会が本当に優しかったのか、単に見えていなかっただけなのかも分からない。分からないまま、子どもと親だけに我慢を押しつける言い方をしていたことは認める。
それでも、泣き声がつらい日はある。そういうときはイヤホンを使うなり、少し離れるなり、自分の側でもできる対策をする。子どもが街にいることを問題にするより、子どもがいても親が孤立せず、周囲も過剰に疲弊しない仕組みを作るほうが、ずっと現実的だと思う。