母がガンで死んだ。

春の終わり頃、母が食事のあとに「なんとなく胃が重い」と言い始めた。最初は年齢のせいだろうと思っていたし、本人も病院は嫌がった。毎年の検査を受けていたから、まさかそんなに悪いものだとは考えていなかった。

けれど、黄疸が出て、目も皮膚も黄色くなった。慌てて病院へ行き、検査を受けた。結果を聞くために診察室へ入った時、医師は少し間を置いてから、膵臓にかなり進んだガンがあると話した。すでに他にも影響があり、手術で取り除くことは難しいということだった。

その時、母は黙って医師の顔を見ていた。私は隣でメモを取ろうとしたけれど、手が震えて字にならなかった。治療をすれば少し時間を延ばせる可能性はある。ただ、体力のことを考えると、強い治療はかえって苦しいかもしれない。そんな説明をされた。

母は「どれくらい?」と聞いた。

医師が答えた数字を聞いても、現実感がなかった。何年も先の話をしているような気がした。でも、家に帰る車の中で、母は窓の外を見ながら「今年の夏は無理かな」と言った。そこで初めて、時間が本当に残っていないのだとわかった。

それからの三か月は、長かったような短かったような、不思議な時間だった。できるだけ毎日、母のところへ行った。食べられるものを買い、薬を並べ、洗濯をした。母は申し訳なさそうにして、何度も「何もお返しできんのに、ごめんね」と言った。

私はそのたびに、「違うよ。今、私がお返しをしてるんだよ」と答えた。母は少し笑って、それでもまた翌日には同じことを言った。

体が痛い日は、背中や足をゆっくりマッサージした。力加減を聞くと、母は「そこ、気持ちいい」と言った。昔、私が子どもの頃に熱を出した時、母もこうして背中をさすってくれたのだと思う。手のひらの記憶だけは、何年経っても残っているものらしい。

最後の頃には、ほとんど歩けなくなった。話すことも少なくなり、眠っている時間が増えた。苦しそうな時には薬を使った。眠ってしまう母を見ていると、それで本当にいいのか迷ったけれど、少しでも痛みがなくなるなら、それが一番だと思った。

家族で相談して、最期は自宅で過ごすことにした。入院している方が安心なのかもしれない。でも、母はずっと「家に帰りたい」と言っていた。家の布団で眠り、いつもの天井を見て、窓から庭を眺める。それだけでも母にとっては大事なことだったのだと思う。

亡くなる前の日、母はほとんど話せなかった。それでも私が手を握ると、少しだけ握り返してくれた。聞こえているのかどうかもわからないまま、私は昔の話をした。旅行に行った時のこと、くだらないことで兄弟げんかをしたこと、母が作ってくれた料理のこと。返事はなかったけれど、話し続けた。

その夜、家族全員が母のそばに集まった。誰かが席を外している間に何か起きたら嫌だったので、交代しながら見守った。朝方、母の呼吸がゆっくりになった。苦しそうには見えなかった。

最後に、母が小さく息を吐いた。医師が確認して、母は亡くなった。

家族みんなで見送れたことだけは、よかったと思う。もっと何かできたのではないか、あの時別の病院へ行けばよかったのではないか、今でも考える。でも、考えても答えは出ない。母が病気だとわかってから、その時その時にできることをやるしかなかった。

葬儀が終わっても、すぐには悲しくならなかった。連絡をする相手がいなくなったことや、母の部屋に物が残っていることの方が気になった。四十九日を過ぎて、空っぽになった実家に泊まった時も、誰もいない家に自分だけがいるのが不思議だった。

気を張っている間は平気だった。けれど、ふと心を許すと、急に涙が出た。母が使っていたコップを見た時、買い物の途中で母の好きだった菓子を見た時、マッサージをしていた時の手の感触を思い出した時。悲しみはずっと同じ強さで続くのではなく、波のように突然やって来る。

母が死んだという実感は、まだあまりない。これから何年も経って、夢の中に母が出てきて、目が覚めた後にまた死を知るのかもしれない。夢の中だけでも、普通に話せたらいいと思う。

母は、最後まで私に謝っていた。何も返せないと言っていた。

そんなことはない。もらったものの方が、ずっと多い。今まで育ててくれたことも、病気になってから家族で過ごせた三か月も、全部、母からもらったものだと思っている。

だから私は、これからの人生をちゃんと生きる。母に見せることはできないけれど、できるだけ元気で、時々思い出して、また前を向いていく。

お母さん、お疲れさまでした。今までありがとう。