死刑存続派も廃止派も、どうも論点がズレている気がする。

存続派は「被害者遺族の気持ち」や「凶悪犯を生かしておくのか」「抑止力があるかないか」という話ばかりする。廃止派は冤罪や執行方法の残虐性、国際的な潮流を持ち出す。もちろんそれぞれ大事な論点ではあるけれど、その前に考えるべきことがあるんじゃないか。

本質は、国家に自国民を殺害する権能を与えてよいのか、ということだ。

個人が人を殺せば殺人罪になる。仇討ちや復讐も認められていない。それなのに、国家が手続きを整えて判決を出せば、人を殺してよいことになる。この違いは何なのか。国家だけが生命を奪う権利を持てる根拠はどこにあるのか。

「悪いことをした人間だから仕方ない」というのは、結局のところ個人の復讐感情を国家が代わりに満たしているだけではないのか。刑罰は私刑を防ぐためにある、という説明もあるが、だからといって国家が殺人を代行してよいという話にはならないと思う。

よく戦争や警察官の射殺を例に出して、「国家はすでに人を殺している」と言う人がいる。しかし、戦争や自衛、現場での発砲は、差し迫った危険を止めるためのものだ。刑罰として、危険が去った後に拘束されている人間を殺す死刑とは別の話だろう。そこを一緒くたにして「国家には暴力を使う権利がある」と済ませるのは乱暴すぎる。

逆に、「外国人を殺害する権能は国民から与えられていない」などと書いたのも、我ながら説明が足りなかった。日本国内で犯罪を犯した外国人が、日本の法律に基づいて死刑判決を受けることはある。国籍によって死刑の対象外になるわけではない。言いたかったのは、国家が自国民を守るという名目で、他国民を自由に殺す権限まで持つわけではないということだったのだが、書き方が悪かった。

ただ、外国人と日本人を対比させたかったわけではない。日本人であろうと外国人であろうと、国家が人の生命を奪うこと自体を問題にしている。

国家には逮捕・拘禁する権限も、財産を徴収する権限もある。だから生命を奪う権限だけが特別だと言うのは単純すぎる、という反論もある。でも、自由や財産を制限することと、取り返しのつかない形で生命を奪うことは同じではない。しかも裁判は間違う。どれだけ慎重にやっても、冤罪の可能性をゼロにはできない。

人間に自由意志があるのか、犯罪者をどこまで本人の責任として罰してよいのかという問題もある。生まれ育った環境や貧困、虐待、教育、偶然の積み重ねが、その人を犯罪に向かわせる。もちろん被害者の苦痛を軽視するつもりはないが、国家が人を殺す前に、犯罪を生み出す環境をどれだけ減らしたのかは問われるべきだと思う。

死刑をなくしたら私刑が増える、という意見もある。被害者家族が自分で復讐してしまうから、国家が代わりに罰を与えるのだ、と。だが、それは死刑が必要だという証明なのだろうか。国家が報復を引き受けるなら、なおさら報復以外の方法で、社会から危険を隔離し、被害者や遺族を支える制度を充実させるべきではないか。

無期懲役と死刑の間が極端すぎるという話には同意する。更生の可能性を残しつつ、社会からは永久に隔離する刑も考えられる。拘禁による苦痛や、自由を奪われた人生も十分に重い刑罰なのに、議論では「死」にばかり重さが置かれているように見える。

死刑存続派も廃止派も、相手を人道的だとか感情的だとか決めつける前に、国家とは何のためにあるのか、国家にどこまでの暴力を委ねるのかを考えた方がいい。国民が選んだ民主主義だから何をしてもよい、ということでもない。多数決で人権侵害が正当化されるなら、憲法も裁判所も必要なくなる。

自分は、国家が人を殺すことを認めるべきではないと思っている。少なくとも、存続させたい側が「悪い奴だから死刑」で終わらせるのではなく、なぜ国家だけが殺す権利を持つのかを説明してほしい。そこが説明されない限り、死刑制度には賛成できない。