最近の日本アニメを見ていると、原作を尊重する、というだけでは足りず、原作者が制作にかなり深く関わることが前提になりつつあるように思う。
昔は、原作の名前とキャラクターを借りて、アニメはアニメの都合で作る、というのが普通だった。原作に追いつかないようにアニオリを挟んだり、設定を変えたり、場合によってはタイトルと登場人物くらいしか共通点がない作品になっていたり。今から考えるとずいぶん大らかな時代だった。
もちろん、原作通りにやれば必ず面白くなるわけではない。漫画とアニメでは尺もテンポも表現方法も違うし、原作者がアニメ制作の専門家というわけでもない。宮崎駿や押井守のように、原作を大胆に換骨奪胎して別の傑作にしてしまう人もいる。原作に忠実であることだけが正解なら、ああいう作品は生まれない。
ただ、近年の変化は「原作をそのまま映像化する」という話ではなく、原作者と制作陣が一緒に、そのメディアに合った形を作る方向に進んでいる、ということなのだと思う。キャラクターの解釈や物語の核については原作者が責任を持ち、絵コンテや演出、作画、音響などは専門家に任せる。必要なら原作者が新しいアイデアを出し、制作側がそれを採用したり、逆にアニメとして成立しないものは断ったりする。そういう協力体制が理想なのだろう。
BLEACHの新作や、ちいかわ、ぼざろ、進撃の巨人などを見ていると、原作者の関与が単なる監修の名義貸しではなく、作品の解釈そのものに影響している例が増えている。原作者がアニメ用に設定を補ったり、原作では描けなかった部分を別の形で表現したりする。原作を読んでいる側にとっても、「これは公式の解釈なのか?」という楽しみ方ができるようになった。
一方で、原作者が関われば良い作品になる、という単純な話でもない。連載を抱えた漫画家に、毎週のようにシナリオ確認や会議、アフレコ、作画監修まで求めたら、原作のほうが止まってしまう。関わった結果、作者の希望で作品が変な方向へ行くこともあるし、原作者がアニメの現場を混乱させる可能性もある。ガンスリンガー・ガールの二期や、実写版進撃の巨人のような例を思い出すと、原作者参加は万能のお守りではない。
そもそも、原作者が本当に制作に口を出せる立場になるには、契約や出資の問題もある。東村アキコのように自分で出資までして、ようやく意見を通せるという話を聞くと、単に「作者を大事にしよう」と言うだけでは済まない。制作費を出す側、企画を動かすプロデューサー、監督や脚本家、それぞれの権限と責任を整理しないと、結局は現場に負担を押しつけるだけになる。
それでも、原作の名前で集客するなら、原作者が納得できる形にするのが最低限のリスク管理だとは思う。原作を無視して別物を作り、出来が悪かったら原作者やファンまでまとめて傷つく。実写化をめぐる事件が起きた後では、原作者を蚊帳の外に置くことの危うさが以前よりはっきり見えてしまった。
だから「原作者が関わる時代になった」というより、原作者を含めた協力体制を組まないと、原作付き作品を扱うこと自体が難しくなってきた、ということなのかもしれない。原作通りにするか、思い切って改変するかは作品ごとに違っていい。ただ、誰が何を決め、最終的に誰が責任を持つのかを曖昧にしたまま、原作者だけを消耗品のように扱うのはもう限界なのだと思う。
原作を尊重することと、原作をそのまま再現することは違う。原作者が深く関わることと、原作者の言う通りに全員が動くことも違う。そのあたりを踏まえて、原作とアニメがそれぞれ別の表現として面白くなる形を探す段階に入った、というくらいが正確なのだろう。