うちの会社に、20代半ばの若手社員がいる。
入社してからずっと営業をやっていて、能力がないわけではない。むしろ数字はそこそこ出していた。ただ、社長が「若いんだから終電まで働け」「新人は会社に恩返ししろ」というタイプで、残業代はほとんど出ない。休日に呼び出されることも多かった。
その社員が、ある日突然、出勤してきた。 正確には、一人ではなかった。
隣に50代くらいの男性がいて、二人で受付を通ってきた。
「お父さんですか?」
と聞いたら、若手社員は少し困った顔をして、
「まあ、そんなところです」
と答えた。
そのまま二人で社長室に入っていったので、私はてっきり、退職の話をするために親御さんが付き添ってきたのだと思った。最近は本当に親が会社に来ることもあるらしいし、そこまで珍しい話でもないのかな、と。
しばらくして、社長室から大きな声が聞こえてきた。
「親が出てくるなんて、社会人としてどうなんだ!」 「うちの会社を辞めたければ勝手に辞めればいい!」 「そんなことで弁護士を連れてくるな!」
やっぱり親だったのか、と思っていたら、しばらくして若手社員だけが出てきた。
「今までありがとうございました。今日付で退職します」
それだけ言って、荷物をまとめ始めた。
社長はまだ社長室で怒鳴っている。
「会社を舐めるな!」 「そんな請求が通ると思っているのか!」 「お前を雇ってやったのは誰だと思っている!」
若手社員は何も言い返さず、淡々とパソコンを返却していた。
そこへ社長から私が呼ばれた。
「お前、あの親が何者か調べろ。それから会社に都合のいい弁護士事務所を探せ」
どうやら若手社員は、未払いの残業代と、在職中に受けたパワハラについて請求するつもりらしい。タイムカードや業務メール、休日のチャットなどを保存していて、すでに専門家にも相談しているという。
私は「会社の弁護士を探すということですか」と聞いた。
「そうだ。あいつが何を言ってきても、こっちが優位だと証明できる弁護士を探せ」
社長はそう言ったあと、スマホでAIに相談し始めた。
「これは利益相反になるのか?」 「在職中の社員が会社を訴える場合、会社側はどうすれば勝てる?」 「親族の弁護士が相手だと不利なのか?」
出てきた回答を見ては、
「ほら、やっぱりこっちが正しい」
と満足そうにしている。
ただ、相談内容を横から見る限り、社長は自分に都合のいい条件ばかり入力していた。残業代を払っていないことも、深夜に何度も呼び出していたことも、退職を申し出た社員に「損害賠償を請求する」と言っていたことも書いていない。
それで「会社側に正当性がある」という回答を得て、勝ったつもりになっている。
そのうち、社長が私に言った。
「お前もあいつに続いて辞める気じゃないだろうな。あんな親を連れてくるような奴の言うことを信じるな」
私は、あの男性が本当に親なのか気になって、若手社員に聞いてみた。
すると、彼は少し笑って言った。
「親ではないです。父の知り合いの弁護士です」
「えっ」
「両親には心配をかけたくなかったので、最初は一人で相談していました。でも、会社に残る社員の分も含めて相談したいと話したら、先生が一度会社に行きましょうと言ってくれて」
つまり、社長が親だと思って怒鳴りつけていた相手は、労働問題を扱っている弁護士だった。
しかも若手社員は、自分一人の退職や残業代だけではなく、同じように未払いがある社員が何人もいることを伝えていた。証拠も、それぞれが持っているらしい。
「在職中だと、会社と利益相反になるから、他の社員の分まで同じ事務所で受けてもらうのは難しいかもしれませんけどね」
と彼は言っていた。
私はその話を聞いて、さすがに早めに転職先を探した方がいいと思った。というか、社長の指示通りに会社側の弁護士を探す手伝いをするのも、もう嫌だった。
翌日、社長に呼ばれた。
「昨日の件だが、あいつの親の事務所を調べた。かなり大きいところらしい。お前、今日中に別の弁護士を探せ」
「社長、まずは未払い残業代の計算をした方がいいんじゃないですか」
「そんなものは払う必要がない。本人が勝手に残っていただけだ」
「でも、社長が夜中に指示を出した記録がありますよ」
「そんなのは仕事熱心だっただけだ」
話が通じない。
さらに社長は、若手社員が退職したことを「会社に対する背信行為」だと言い出し、損害賠償を請求すると息巻いている。けれど、社長自身が「辞めるなら今すぐ辞めろ」と何度も言っていた録音まであるらしい。
昼休みに若手社員から連絡が来た。
「先生から、同じような状況の人がいたら相談していいと言われました。必要なら紹介します」
私は少し迷ったが、同僚数人にもその話をした。
すると、みんな似たような証拠を持っていた。休日出勤の記録、深夜の指示、残業申請をさせないように言われたメッセージ。社長が思っている以上に、会社の中には記録が残っていた。
社長は今も、会社は絶対に負けない、弁護士を探せば自分が優位になる、と言っている。
でも、弁護士を探す前に、まず未払い分を計算した方がいいと思う。
私は昨日、転職サイトに登録した。若手社員も、もう次の会社が決まっているらしい。
親同伴で出勤してきたと思ったら、実際は専門家同伴だった。
そして一番慌てているのは、親でも弁護士でもなく、何も準備していなかった社長だった。