元増田の文章を読んで、なんやこれは、と思った。おもろい。おもろいねんけど、読んでいるうちに、書いている本人の心にも男性器が生えているように見えてきた。もちろん比喩や。身体の話をしたいわけではない。男同士の関係を、男同士の評価や競争や、女をめぐる勝ち負けでしか測れなくなる感じのことを言っている。
男が男を好きになる、と言うと、すぐ性愛の話にされる。けれど、実際には、尊敬、親しさ、憧れ、嫉妬、模倣、承認欲求、支配欲、いろんなものが混ざっている。誰かのことを「こいつに認められたい」と思う気持ちと、「こいつより上に立ちたい」と思う気持ちは、たぶん完全には分けられない。そこに女への欲望が絡んだり、絡まなかったりする。
ホモソーシャルという言葉を、男同士の絆は全部偽物だ、男は結局女を媒介にしてしかつながれない、と読むと、そりゃ変な話になる。そんな単純な話ではない。男同士でゲームをしたり、酒を飲んだり、仕事の愚痴を言ったり、同じ趣味について延々話したりするのは、普通に楽しいし、そこには性愛とは違う友情もある。ただ、その共同体が誰を排除し、何を評価し、誰に利益を配るのか、という話になると、単なる「仲良し」で済まなくなる。
男らしさをめぐる競争も同じや。強い、稼ぐ、モテる、詳しい、我慢できる、女に困っていない。そういう記号を持っている人が、他の男から一目置かれる。女に好かれる男は男からも評価される、という妙な回路もある。逆に、女に好かれないことを男としての敗北みたいに扱う空気もある。ここでは女は一人の人間というより、男の価値を測るための証明書にされてしまう。
だからといって、女同士の関係には競争がないとか、女社会は純粋な友情だけでできているとか言いたいわけではない。化粧や服や結婚や子育てが、承認や比較の道具になることはある。誰だって人の目を気にする。男だけが孤独に強く、女だけが群れている、というのも雑すぎる。人はだいたい、誰かに見られながら生きている。
マウンティングという言葉を入れると、もう少し見通しがよくなる気がする。性愛、愛着、承認だけでは説明できない、「相手より上に立ちたい」「負けたくない」「自分の側にいると示したい」という欲望がある。男同士の冗談や友情が、突然、序列の確認に変わることもある。NTRのような物語に、奪われた女よりも、奪った男と奪われた男の力関係を見る人がいるのも、その延長なのかもしれない。女が好きだからこそ、女を通じて男同士の勝負をしている、というねじれだ。
ただ、何でもホモソーシャルで説明すればいいわけではない。便利な言葉は、すぐに万能鍵になる。男同士の友情を全部「実は女をめぐる競争」と言い換えたら、友情の楽しさも、同性間の親密さも見えなくなる。逆に、友情という名前をつけておけば権力関係が消えるわけでもない。楽しいからいい、というのも一つの答えやけど、楽しいことが誰かの排除の上に成り立っていないかは別に考えた方がいい。
それに、女を好きになる男の話をするとき、女から男への視線が忘れられがちなのも気になる。男同士で「この男はモテる」と評価していても、実際にその男を好きになるかどうかは女の自由や。男から男への評価が、そのまま女の欲望になるわけではない。そこを勝手に接続してしまうのは、女を観客か賞品にしているからやろう。
元増田は、いろんな関係のなかに「男同士の欲望」を見つけて、あれもこれもホモやん、とおもちゃ箱に入れて遊んでいるようにも読めた。そういう読み方は、雑やけど刺激的ではある。ただ、刺激的な比喩が、そのまま学問的な説明になるわけではない。セジウィックの議論も、BLも、同性愛嫌悪も、ミソジニーも、全部ひとまとめにして笑ってしまうと、何が見えて何が消えたのか分からなくなる。
結局、男同士の絆が性愛なのか友情なのか、という二択にする必要はないと思う。人の感情はもっと混線している。親しさの中に競争があり、尊敬の中に嫉妬があり、性愛の中に承認欲求があり、友情の中に支配欲が混じることもある。女同士でも男同士でも、異性同士でも同じや。
なので、心に男性器が生えている人は、まずそれを抜こうとせず、どんなときに硬くなるのか観察したらいい。誰に認められたいのか、誰より上に立ちたいのか、誰を賞品にしているのか。そこまで見てから、「これは友情や」「これは性愛や」「これはホモソーシャルや」と名前をつければいい。名前をつけることは楽しい。でも、名前をつけた瞬間に相手を分かった気になるのは、たぶん一番つまらない。