承認欲求という言葉を聞くと、まず「褒められたい」「いいねがほしい」という意味を思い浮かべる。もちろんそれも含まれるのだろうけど、最近、それだけでは説明できない感情があるなと思っている。

たとえば、自分ではかなりいい加減な人間だと思っているのに、周囲からは「几帳面で真面目な人」と見られている人がいる。その人が褒められても、うれしいというより、どこか居心地が悪いかもしれない。褒められたのに、自分ではない誰かを肯定されたように感じるからだ。

逆に、自分はこういう人間だ、こういうことを大事にしている、こういう見方は間違っていない、と信じているものを、そのまま他人にも受け取ってほしいという欲求がある。成果物を評価してほしいというより、「そこを見てほしい」「その意味で理解してほしい」という感じ。自分の中にある自己像や物語を、他人の認識にも採用してほしい。

だから、見当外れな褒め方をされると、褒められているのに微妙な気分になる。本人はエロく見られるために選んでいない服装を「エロくていいね」と言われるとか、苦労していない部分を「頑張っていて偉い」と評価されるとか。否定されたわけではないのに、「俺を肯定で捻じ曲げないでくれ」と思ってしまう。

これは称賛欲求とは少し違う。承認というのは、偉いと褒めることではなく、「あなたはそういう人なのだ」と認めることなのだと思う。賞賛を獲得したい気持ちもあれば、拒絶されたくない気持ちもある。自分の物語が崩れないようにしたい気持ちもある。心理学では別の欲求として分類されるのかもしれないが、日常では全部まとめて承認欲求と呼ばれている。

「自分は不幸だ」と言い続ける人が、他人から「それはつらかったね」と言われると安心することがある。運が悪いと言われて喜ぶ人もいる。努力不足ではなく運の問題だ、と認めてもらえるからだろう。反対に、「そんなに不幸ではない」「差別ではない」と言われると、自分の物語を壊されたようで腹が立つ。加害者なのに被害者のように振る舞う人も、結局は自分が信じる自分を守っているのかもしれない。

SNSは、その自己像を展示する場所でもある。旅行したときだけ写真を載せて「旅行を楽しむ自分」を演出したり、好きな作品について語って「自分はこういうものを面白いと思う人間だ」と示したりする。共感やいいねは、単なる数字ではなく、「自分の見ている世界は間違っていない」という小さな証明になる。生活が安定して、飯が食えて屋根があるからこそ、そういう欲求が出てくるというのもわかる。

一方で、他人からどう見られるかはどうでもよく、自己満足だけで動く人もいる。やりたくないことはやらず、やりたいことをすぐやる。褒められるとむしろ冷める人もいる。承認欲求が薄いということ自体を知ってほしくなる人もいる。結局、人によって欲しい承認の種類も、受け取り方も違うのだろう。

「私を見て」と言うだけの素朴な欲求もあれば、「そういうお前って、ほんとお前だなあ」と言われたい欲求もある。推しを褒めた人に「ありがとうございます」と返すのも、自分の大切なものを理解してもらえた喜びなのかもしれない。抱っこされて、撫でられて、今日あったことを聞いてほしい。人間も犬も、案外そこまで違わない。

承認欲求を醜いものとして切り捨てるのは簡単だけど、それは社会的な動物としてかなり原始的な欲求でもある。問題は、それが強すぎて他人を支配しようとしたり、現実と自己像のずれを受け入れられなくなったりすることだ。自分の物語を守るために、他人の物語まで書き換えようとすると、途端に面倒な怪物になる。

本当の解放は、他人から自分の望む通りに見てもらうことではなく、見られ方が少し違っても自己像を柔らかく保てることなのかもしれない。それでも、たまには「そこをわかってほしかった」と思う。褒め言葉ではなく、正解に近い形で見つけてもらいたい。承認欲求という言葉が広すぎるとしても、私は今のところ、そのくらいの意味で使うのがいちばん腑に落ちている。