「つまらない=not for you」って言い方について、最近ずっと考えている。
作品を見て「つまらなかった」と言うこと自体は、別に悪いことではない。時間も金も使って見たのなら、その感想を持つ権利くらいある。面白かった人が「最高」「全人類見るべき」と言えるのに、つまらなかった人だけが「自分には合わなかった」と丁寧に包まなければならない、というのは確かに変だ。好き嫌いは感想であって、許可制ではない。
ただ、「つまらない」と「こんなものを好きな人間は馬鹿だ」は違う。作品の演出や脚本、演技、構成について批判するのと、作者やファンの人格を殴るのも違う。そこを全部まとめて「批判の自由」と呼ぶから話がこじれる。
批判するな、黙って立ち去れ、という意見にも息苦しさはある。批判を封じることは、作品やコミュニティを無条件にヨイショする空間にすることでもある。好きな人しか発言できない場所では、問題点が見えなくなるし、肯定的な感想だけが積み重なって、いつの間にか「批判してはいけない」が暗黙のルールになる。ネガティブな意見にも、読む側が判断するための価値はある。
実際、低評価のレビューに救われることはある。大多数が絶賛している作品でも、「この人には、こういう理由で合わなかったのか」と読めば、自分が楽しめそうか判断できる。「薄っぺらい」「退屈」だけでは分からないけれど、どの場面の何がどう感じられなかったのか書いてある文章は、むしろ面白い。つまらなさを面白く語るのは、面白さを褒めるより難しい。
一方で、好きな人たちが集まっている場所にわざわざ入っていって、「それ、つまらないよ」「どこが面白いのか分からない」と叫び続けるのは、批評というより粘着だと思う。誰かがラーメンを食べている横で「そのラーメンはまずい」と何度も言う必要はない。SNSは喫茶店や友人同士の雑談よりずっと拡声力が強く、世界中に向けて叫んでいるのと同じになりやすい。言う自由があるなら、どこで、誰に向けて言うかを選ぶ責任もある。
「not for me」は、本来そのための緩衝材だったのだろう。あなたの好きなものを否定したいわけではなく、私はこういう理由で乗れなかった、と伝えるための言葉。けれど、それをマナーから義務に変えて、「つまらない」と言うな、理由を批評として説明しろ、と要求すると、今度は否定的な感想だけに高い教養と技術を求めることになる。肯定は「尊い」で済むのに、否定は論文を書けというのも非対称だ。
結局、感想を言うのも自由、反論するのも自由、反論されたくないなら公開しないというだけの話なのだと思う。批判に対する批判もまた批判で、どちらか一方だけが無傷でいられる仕組みはない。自分の感想を「世界の評価」に拡大しないこと。楽しんでいる人や作っている人の存在まで否定しないこと。作者に直接ぶつけたり、コミュニティを荒らしたりしないこと。そのくらいの線引きは必要だ。
「つまらなかった」と一度言って、それ以上は離れるのもいい。数千字かけて、どこがどうダメだったか書くのもいい。好きな人がそれを読んで傷つく可能性もあるし、逆に自分の見落としていた点に気づく可能性もある。大事なのは、批判を免罪符にしないことと、「黙って離れろ」を正義の棍棒にしないことだ。
私にとってつまらないものが、誰かにとっては人生を支えるほど面白い。その事実を認めたうえで、それでもつまらないと言う。たぶん「not for me」と「つまらない」は、どちらかを消す言葉ではなく、使う場面と向き合い方の問題なのだ。