『さよならララ』を見ていて、ずっと引っかかっていたことがある。絵はきれいだし、ララと周囲の人たちの距離感も独特で、パンひとつの扱いにまで妙な生活感がある。滋賀の方言をちゃんと使っているところも好ましい。なのに、話が進むほど「これは結局、何の話なんだろう」という気持ちが強くなっていった。

きっかけは監督インタビューだった。そこで監督は、説明的なセリフをかなり削ったことや、タフで生っぽい作品にしたかったことを話していた。なるほど、と思う一方で、見ている側としては、削られたのが単なる説明ではなく、物語をつなぐ部品そのものなのではないか、とも感じた。

説明セリフが多すぎるアニメが苦手な人は多い。扉が開かないだけで「さっきまで開いていたのに」「どうして開かないんだ」と登場人物が実況するような作品を見ると、そこまで言わなくても分かるだろうと思う。映像で見せられることを全部言葉にしてしまえば、たしかにアニメである意味は薄くなる。

ただ、説明をしないことと、手掛かりを置かないことは別だ。登場人物の表情や行動、背景の小道具から推測できるなら、視聴者は喜んで行間を読む。逆に、映像のどこにも答えの欠片がなく、後から設定だけを提示されると、それは余白ではなく空白に見えてしまう。

『さよならララ』は、その境目を何度も越えているように思えた。ララが何者なのか、なぜこの場所にいるのか、主人公たちは何を背負っているのか。全部を説明してほしいわけではない。でも、物語の中心にあるはずの「真実の愛」が何を指しているのかすら、いまだに輪郭がぼやけている。謎が残ること自体は悪くないが、謎を追うための感情の導線まで切れてしまうと、こちらは置いていかれる。

とくに現代のルカが出てきたあたりから、これまで見てきた出来事とのつながりが急に分からなくなった。テンプレートから外れたと思ったら、次の場面ではいかにも見慣れた展開が来る。その振れ幅を面白いと感じる人もいるだろうし、既存のアニメに飽きている人には刺さるのかもしれない。最終回で伏線が回収されれば、印象が変わる可能性もある。

実際、面白いと言っている人もかなりいる。行間を読ませる演出が好きだとか、演技だけで見せる場面がいいとか、今年一番好きだという感想も見かける。反対に、三話までは見られたが、四話以降は失速したという人もいる。これは作品の出来というより、どこまで画面から読み取ることを楽しめるかの違いなのだろう。

エヴァンゲリオンのように、説明を放棄しているように見えても、視聴者を引きつける要素が強ければ大勢に支持される作品はある。『2001年宇宙の旅』のように、分からないものを分からないまま置く映画もある。だから、分からないから即つまらない、という話ではない。理解できない感想を作品への責任転嫁だと片付けるのも違うと思う。

結局、今回は「分からない」のではなく、「分かりたいと思うための感情が育つ前に、次の謎へ移ってしまう」ことがつらかった。国を滅ぼしたことへの主人公の自覚が薄く見えたり、王の判断が都合よく見えたりすると、世界の大きな出来事が物語の都合で動いているように感じる。ガールミーツガールの形も、そこに人生や罪の重さが乗れば美しいのだろうが、今のところ絵の美しさに物語が追いついていない。

説明セリフを削ることは、作り手の美学として尊重されるべきだと思う。でも、削った結果、視聴者が想像する余地ではなく、視聴者が想像する材料まで消えてしまったら本末転倒だ。監督のひねくれたセンスが悪いというより、言葉にしない美しさと、言葉が必要な場面の見極めが難しいのだろう。

最終回まで見れば、さよならの意味も、ララがこの物語にいた理由も分かるのかもしれない。録画したまままだ見ていない人には、先入観なしで見て判断してほしい。私は期待していたぶん厳しくなっているだけかもしれないし、刺さる人にとっては、説明されすぎた作品にはない魅力があるのも分かる。

ただ現時点では、パンが無事だったことにほっとしながら、肝心の物語にはまだ気持ちを乗せきれていない。分からない部分があること自体ではなく、分からないままでも見続けたいと思わせる力が、回を重ねるごとに弱くなっている。それが、私にとって『さよならララ』がつまらなく感じられた一番の原因だと思う。