まどマギの映画を観に行った。
公開から少し経っている平日の昼間。さすがにもう落ち着いているだろうと思っていたのだけど、ロビーには思ったより人がいた。若い人もいたが、どうしても目につくのは、年季の入ったオタクっぽいおじさんたちだった。まあ、自分もその中の一人なので、あまり人のことは言えない。
上映が始まってしばらくすると、隣の席に小太りのおじさんが座った。よれよれの白いTシャツに、少し大きめのリュック。近くに来た瞬間、かすかに汗と古い布みたいな匂いがした。
別に、それ自体は映画館では珍しいことでもない。むしろ、こういう客層の映画を観に来ておいて、客の匂いがどうこう言うほうが野暮だと思う。おじさんは静かに観ていたし、上映中にスマホを触ることもなかった。
映画はすごかった。
すごかった、という以外にうまく言えない。満足したはずなのに、何かがずっと胸の中に引っかかっている。観終わった人間を元の場所に戻してくれないというか、観客のほうまで作品の一部にされてしまったような感じがあった。
エンドロールが終わり、明かりがついた。
隣のおじさんが、こちらを見ていた。
「よかったですね」
と声をかけられた。自分も「はい」と答えた。もう少し何か話したくなって、最近こういう感想を誰かと共有することも減ったな、などと考えた末、
「Twitterとか、やってますか」
と聞いた。
おじさんは少し考えてから、首を横に振った。
「やってないです」
それだけだった。
自分もやっていない。正確にはアカウントはあるけれど、もう何年も書き込んでいない。映画の感想を投稿して、誰かの感想に星をつけて、また次の上映を待つ。そういうことをしていた時期もあった。でも、今はもう、どこに向かって感想を書けばいいのかよくわからない。
おじさんは立ち上がった。
「じゃあ、またどこかで」
そう言って、スクリーンのほうへ歩いていった。
出口は反対側なのに、と思った。
声をかけようとしたが、なぜか声が出なかった。おじさんの背中が、暗いスクリーンの前で少しずつ薄くなっていく。照明のせいかと思った。映画の余韻で目がおかしくなっているだけだと思った。
やがて、おじさんは消えた。
消えたというのは比喩ではなく、本当にいなくなった。そこに人がいたという気配だけが残っていた。いや、気配もすぐになくなった。
劇場には、自分以外誰もいなかった。
スタッフが入ってきて、客席を確認している。忘れ物がないか、座席の下を見ている。自分は立ち上がれなかった。さっきまで隣にいたおじさんのことを説明しようとしたが、何をどう説明すればいいのかわからない。
スタッフが床に落ちているものを拾った。
よれよれの白いTシャツだった。
「またか……」
という顔をしていた。
自分は、なぜかそれを見て笑ってしまった。笑うようなことではないのに、笑いが止まらなかった。スタッフが不審そうにこちらを見る。そこで初めて、自分の隣の席にも何か落ちていることに気づいた。
白いTシャツだった。
自分はそんなものを着てきていない。少なくとも、上映前には着ていなかった。なのに、座席の上には白いTシャツが二枚、並べて置かれていた。
劇場の天井の照明が、やけに遠く見えた。
小さな星みたいだった。
そういえば、おじさんは最後に何か言っていた気がする。「独りぼっちは」とか、「また」とか。よく聞き取れなかった。自分も何か約束をしたような気がする。でも、誰と、何を約束したのかは思い出せない。
スタッフがこちらへ近づいてくる。
「お客様?」
返事をしようとした。
けれど、自分の声はもう、劇場のどこにも響かなかった。
伽藍堂のシアターに、よれよれの白いTシャツが二枚残った。